石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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お      だ     や ま     じょう
小 田 山 城

文治5年(1189)から天正17年(1589)まで会津の領主だった葦名氏の山城跡
 会津若松市門田町黒岩に所在する「小田山城跡」は、葦名氏(あしなし)の本拠とする山城です。 『会津古塁記』や『会津鑑』『旧亊雑考』『富田年譜』に記載されていますが、その実態についてはほとんど解明が進んでいない状態です。現在までに、遺構を紹介された報文は、会津史談会史談通信に年野孝次氏が記載しているものと『福島県の中世城館跡』に報告されているだけです。平成16年度に市教育委員会で縄張り調査が実施され『小田山城跡』として報告書が作成されています。城跡は、所在する地区で大きく、小田山地区と、荒佐原山地区・奴田山地区の青木山区とに分けられます。平成18年には、「小田山麓の歴史を訪ねる会」によって冠木門(かぶきもん)が城跡の手前に建設されました。 mon
建設された冠木門は、現在向羽黒山城山にあります
 冠木門(かぶきもん)
 この門や塀、柵は、小田山城が築かれた中世戦国時代、築城の手引書であった「築城記」別名「要害之事」にある記述を参考に復元した門です。山城の門は、冠木門が良いとされ、縦と横の四角な窓は弓矢の穴です。小田山城には、このような門があったと推定されます。
 門の後方、南側上部には、実際に門のあった虎口と土塁、平場が残されています。
名 称  小田山城跡(おだやまじょうあと)
所在地
福島県会津若松市門田町大字黒岩
所有者 会津若松市、国有地、民有地。小田山地区は市有地が中心。
面  積
約30ヘクタール  (小田山地区約10ヘクタール 青木山地区約20ヘクタール)
築城者 葦名氏 (葦名氏5代盛宗から7代直盛にかけて築城か)
築城年 14世紀前半(鎌倉時代末)
廃城年

16世紀中頃。16代葦名盛氏が永禄11年(1568)に向羽黒山城を築城し、山城の最後の砦とする機能は向羽黒山城へ移されます。完全に廃城となるのは、天正(てんしょう)18年(1590)に蒲生氏郷が会津に入る時です。
特  長


標高371.7メートルの小田山地区と標高723.3メートルの青木山区域に分かれています。若松の市街地は標高約220メートルです。小田山地区には、馬蹄形の平場12段と、土塁、虎口(こぐち)で造られています。青木山区は、荒佐原(あらさわら)山地区と奴田山(どたやま)地区に分かれ、荒佐原山地区は平場で構成され、奴田山地区は堀切(ほりきり)、土塁平場で構成されています。幅の狭い平場と比高差500メートルという高い場所に築かれていることや、土塁や大きさが低いことなどから鎌倉時代末から南北朝時代にかけて築城された特長があります。永禄11年に向羽黒山城が完成することから、この山城は最後の砦とすることが無くなることから、物見を除き使用されなくなります。
交  通
磐越自動車会津若松ICから20分、会津若松駅からタクシーで15分。北側山麓に駐車場が有ります。大型は進入できません。
その他
小田山地区には、円墳の小田山古墳群、会津藩の大窪山墓地、戊辰戦争の新政府軍砲陣跡、山麓には葦名家の寿山(じゅざん)廟、花見ヶ森廟があります。
連絡先 
小田山麓の歴史を訪ねる会   事務局 長谷川慶一郎 0242-26-9255

会津若松市の城館跡一覧  葦名氏歴代一覧
  小田山地区 
「小田山公園部分」 
 小田山の頂上部分には、会津藩家老の田中玄宰(はるなか)墓と、その下に丹羽家(にわけ)の墓地があります。それら墓地の場所を中心に山城の遺構があります。丹羽家墓地のある平場(ひらば)から北側に向かって12段の三日月形をした曲輪(くるわ)が馬蹄形に連続し、土塁もあります。平場は、幅約1間から2間あり、高さ約1m の土塁があり、城の大手口(正面入口)となる虎口(こぐち・入口)と推定される部分があります。尾根の高い場所には、櫓台(やぐらだい)の見張りが置かれていたと考えられます。明治時代以降、小田山都市公園の道路の建設で中段部分の平場の遺構が一部消滅しています。
「大窪山墓地部分」
 小田山の南側、大窪山(おおくぼやま)墓地の部分は、幅1間から2間細長い平場と半月状の平場で構成されるもので、江戸時代に墓地に転用されています。また、遺構のやや上に位置する地点には、南と中央と西に土塁を伴った枡形状の虎口があります。所々に土塁状の遺構も確認されます。尾根の部分には、土塁や尾根をX字に切り取った堀切、竪堀(たてぼり)があります。

「寿山(じゅざん)廟」
 
葦名氏の墓地、3代光盛(寿山公)から9代盛政までの墓地と伝えられています。宝積寺裏側山麓にあったことが「葦名盛氏葬送之図」に描かれています。昭和に一度掘られていますが、錆びた刀剣が出土したといわれています。墓の実態は不明な部分があります。

「小田山古墳」
 
小田山の北側尾根上に、円墳が3基あります。1号墳は直径28.5メートル 、高さ3.6メートルあります。他の古墳は、直径10メートルで、組合せ式の石棺の蓋石(ふたいし)があります。

「大窪山共同墓地」市史跡
 
江戸時代、寛文4年(1664)10月、保科正之(ほしなまさゆき)の命により、会津藩の武士

を中心とする共同墓地に指定されています。墓の数は、約4000基(1996年『大窪山墓地調査報告書』)存在します。多くの城跡の平場が、墓地に転用されているようです。また戊辰戦争の時、新政府軍が構築した塹壕(ざんごう)跡が善竜寺側にあります。
「花見ヶ森廟(竹巌廟)」市史跡
 葦名氏10代から19代までの墓地、央が16代盛氏(竹巌公)、西に17代盛興(もりおき)、東に18代盛高、北約50メートルに一基あります。盛氏墓は、直径11.6メートル、高さ3メートルの円形です。五輪塔は寛文5年(1665)に保科正之が作らせたものです。


 青木山区 (荒佐原山・青木山地区)
 市街地南東ニ位置する通称青木山と呼ばれる荒佐原山(あらさわらやま)と奴田山(どたやま)。北側の市街地に近いほうが荒佐原山です。荒佐原山には、頂上部分から三段の長さ50メートル以上の平場と、北側の平場群で構成されます。奴田山山には、長さ20メートルの土塁に囲まれた4段の曲輪群と、幅約10メートルの堀切が存在します。字館山や御殿場と呼ぶ地点もあります。
「修験の塚」
 曲輪脇の山頂には、修験関係の直径4メートル、高さ1.2メートルの塚が3基あります。


 まとめ
 小田山城は、葦名氏本拠の砦となる詰城(つめじろ)で、鎌倉時代末に小田山部分が最初に築かれ、南北朝時代に奴田山地区造られ、その後荒佐原山地区が築かれたようです。しかし、葦名氏本拠の山城が永禄11年(1586)に向羽黒山城へ移ることから使用しなくなったと考えられる城跡です。

 居館はどこか
 小田山城は、最後の砦となる山城のため、山麓の平坦地に政治の場となる居館(きょかん)が存在していました。正慶(しょうけい)元年(1332)に『富田家年譜』によると、城内から出火した記録があることからも鎌倉末には居館がありました。その館は、『会津古塁記』『会津鑑』にある宝積寺にあった小田館と推定され、字限図を見ると、堀跡と土塁跡の部分が幅約10m で北側、西側、南側の一部に認められ、現在では、墓地となっています。文和(ぶんな)3年(1351)には、現在の若松城付近に、『旧事雑考』にある小高木館、『富田家年譜』にある黒川城が建てられます。至徳元年(1384)、7代直盛が黒川城を改修し城下町も整備します。天文(てんぶん)13年(1544)には、15代盛瞬(もりきよ)が現在の若松城の規模に大改修します。その後、伊達政宗、蒲生氏郷が改修し若松城(鶴ヶ城)となります。
                                                   文責 石田明夫  
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小田山城、曲輪群
(丹羽家墓地)
小田山城の青木山から見た黒川城(現在の若松城)
新政府軍の砲陣跡
葦名家花見ヶ森廟18代盛隆墓
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葦名家墓所