石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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摺上原の戦いと会津の伊達政宗
伊達政宗の南下

 伊達政宗は、天正十三年(1585)8月27日、大内定綱勢が守る小手森城(二本松市東和)を攻めます。円錐形をした山城で「最上義光宛書状」によると、鉄砲8,000挺を撃ちならし、城に籠もった女、子ども、犬までも撫で斬し、須賀川まで手中にしたのと同じで、関東も容易であると最上氏に手紙を送っています。このことから、政宗は、このころ関東進出までも狙っていたのです。撫で斬りの数は、「後藤孫兵衛宛書状」では200人とあることから、200人が正しいと考えられ、戦果を鼓舞したものと言えます。
 この戦いにより、大内氏は敗北した。同年11月17日、二本松の畠山義継を援護するため葦名・佐竹・岩城・白川らの連合軍3万余が北進し、人取橋(安達郡本宮町)で政宗の7、8千の軍勢と衝突した。政宗は、高倉城などの側面攻撃により辛うじて勝利しています。
 天正十四年7月16日、政宗にとって重大な事件がありました。畠山義継が和睦の交渉中に父輝宗を人質に取ったのです。政宗は父輝宗もろとも鉄砲を放ち、義継を撃ち取り、二本松を手中にします。
 この年の11月には、亀若丸が疱瘡にかかり三歳で亡くなります。『会津四家合考』によると金上盛備、猪苗代盛国、富田、平田らの四天宿老と一族で談合し、政宗の弟小次郎を推する富田・平田と、佐竹義重の弟義広を推す金上らに分かれたという。最終的に衆議は義広に決したとされますが、その人選の背後には、豊臣秀吉の指示があったようで、人選のしこりは後まで残りました。
 天正十六年5月10日、天正十三年に大改修された鶴峯城(猪苗代町)に隠居していた猪苗代盛国は、政宗の耶麻郡を与えるという内応策に応じ、盛国の嫡子盛胤が留守中の猪苗代城を乗っ取った。盛胤は、最後まで猪苗代城を奪還することは出来なかった。同年5月から7月にかけて、葦名、佐竹、二階堂の連合軍と、郡山市の伊達方についた郡山太郎左衛門とは、郡山城周辺で激しい戦いを繰り返しています。
 
 摺上原の戦い

 天正十七年(1589)5月5日、『旧事雑考』によると、政宗は安子ヶ島城(郡山市熱海町)を攻め、翌日六日、高玉城(郡山市熱海町)を攻めます。ここでも小手森城と同じく、300人を討取り、女、子供、馬牛までも撫で斬りにした。城跡は、集落の西側にあり、三角形をした山城で、山頂に神社が祀られている。背後に堀切があり、土塁や平場が段々に残っています。
 葦名氏は、猪苗代壺下口に200騎を派遣し、守らせているが、猪苗代盛国の造反があったため、磨上原の戦いまでには撤退した可能性があります。
 6月1日、『伊達天正日記』によると政宗は、猪苗代の三蔵軒と須賀川の左馬介を呼び侵攻作戦を話したものとみられ、家臣の片倉小十郎に土湯方面へ行って宮城と深谷の鉄砲隊を指揮するよう、原田左馬介へは桧原へ行くように申し渡した。このころすでに、政宗と盛国とは信頼関係があって、桧原と猪苗代の二方向から攻める作戦だったようです。
 3日、政宗は中山(郡山市熱海町)まで出かけ偵察に行った。また、猪苗代盛国のもとへ馬と着物を進物に、先遣として布施備後を派遣しています。
 4日この日は雨でした。政宗は、家臣と進攻作戦を談合し、馬を猪苗代へ移させ、午後四時頃には安子ヶ島城を出発した。前日に中山まで出かけていることと、夜道であることから、政宗本隊は、険阻な母成峠ではなく中山峠を越えた可能性がある。猪苗代入城は、真夜中であったとみられる。そのころの猪苗代城内には、書院、西の方には塀、櫓が存在していました。
 一方、義広は須賀川から戻り、黒川城に急遽入り、5日の午前2時頃には黒川を出発した。翌朝、磐梯町大寺の東に富田将監を先陣に、二陣には佐瀬河内、三陣には松本源兵衛、布藤に義広の本陣を置き、総勢16,000余騎で対峙しました。政宗は夜中2時までに、猪苗代盛国を先陣に、二陣に原田宗時、三陣に片倉景綱、政宗の本陣は国立磐梯青年の家付近の八ヶ森に陣取り、総勢約23,000騎で待っていました。
 5日、天気は晴れ、午前中は西風でしたが、午後は東風へ変われました。朝6時には合戦が開始される。当初葦名方で富田将監の勇壮な進撃により、原田や片倉らは押されぎみであった。しかし、佐瀬河内や松本源兵衛、後陣の河原田盛次は、ほとんど動かなかった。『会津四家合考』には見物人が多くいて、その逃げる様子が葦名軍と見誤ったことから味方の不利と捉えたからだという。数で勝る伊達勢は、徐々に優勢に進め、午後二時から四時には勝敗が決した。『伊達天正日記』によると、金上盛備ら2500人を討取ったとあります。また「いなハ代ふもとより黒河近辺迄三うち里(三十里)、おいかけことごとくうち」とあり、30里(約20`、当時の一里は約660b)ほど追いかけ、日橋川を西に進み、塩川近辺まで進んでいます。その戦いで死亡した武将の墓が、方形の塚として会津若松市河東町に点在しています。その時、『新編会津風土記』には、大伽藍を誇った恵日寺は兵火にかかり、衆徒が皆逃げ、寺の検校(盲目で最高位の者)歓喜院玄弘の懸命な伊達方への説得で金堂だけは残したという。その金堂は寛永二年(1625)の失火により焼失した。冬木沢の八葉寺は、寺僧が富田美作の弟宥傳であったことから、葦名氏の恩に答え、寺と一体となっていた権現山館に立て籠もり抵抗しています。そのため、寺ごと火をかけられたのです。その館は、土塁や堀、虎口、石積石垣が寺の東側に残っている。また、勝常寺(湯川村)の徳一坐像は、眉間にある傷が伊達勢の乱入で付けられたものといわれています。会津若松市高野町下高野の千福寺もこの時に焼かれました。
 6日、昼まで雨でした。その日には、金川・三橋まで行き勢力下にしている。『伊達天正日記』には「大塩あけかたに引申候 けんたやしき(源太屋敷)マ罷出候」とあり、大塩とは、柏木城を指し、朝までに葦名勢が撤退し、原田は戦いをせずに柏木城にはいった。伊達勢は、大寺の日橋川に掛かる橋をあらかじめ落としておいたことから、葦名勢は溺れて亡くなったものが500余騎あったという。河東町東長原や柏原、生江には、この戦の戦死者といわれる塚が現存しています。
 このとき、葦名氏重臣で源太屋敷の平田氏が、合戦後直ちに伊達氏に寝返っていたことが分かります。また「御馬大寺付近二御野陣御座候」ともあり、6日に政宗は、大寺の東に陣を張っている。それは陣の山館(磐梯町町屋)で、幕を張っただけでなく、猪苗代城ほどの規模がある本格的な館で、政宗が、11日には黒川に入ったことから未完成となっています。土塁や堀跡、石積石垣が現在り、小段がいくつも存在し、戦国時代の城館の築城過程を知ることができる貴重な陣跡で、江戸時代に描かれた絵図もあります。
 
 政宗時代の会津

 6月11日の昼に黒川に入った政宗は、会津の平田氏をはじめとする侍衆のあいさつをすぐに受けます。その時、黒川城には入らず、仮の居館として興徳寺を充てています。米沢からは母の保春院や夫人の陽徳院も呼び寄せ13日には、保春院の所に出かけています。16日には、本丸御殿の御鷹屋の造作と家臣の屋敷配りをしていることからも、葦名義広が黒川を離れた時に、火は掛けられてなかったようです。
 政宗が、黒川城には入るのは、約1ヶ月後の7月6日であった。その間、城と城下の整備も当然だが、要害の整備が急がれたようです。『伊達天正日記』によると、「ようがい」へ6月17日、21、7月3日、14日と頻繁に出かけています。要害とは、向羽黒山城のことです。天正十八年2月30日にも要害の作事を申し付けている事からも、向羽黒山城の普請には約10ヶ月を要している。その後、黒川城では造作記録はあるものの本格的な改修は、3月19日の石垣普請まで無いようです。つまり、向羽黒山城の改修を優先し、黒川城の改修は、当面本丸御殿や母、夫人の建物などに限定され、要害の改修が一段落した後に城の改修に着手しています。
 摺上原以後、すべて会津が平定されたわけでなく、とくに南会津と津川では抵抗戦が続いていました。南会津の山ノ内氏勝は、本拠の中丸城(金山町横田)を中心に、越後の上杉景勝を援護に頼んで激しい抵抗戦をしています。伊達勢は、山ノ内一族であったが布沢城(只見町布沢)の布沢上野介を寝返らせそこを拠点としています。氏勝は、布沢城
を攻めたものの塩森六郎左衛門らに町組の鉄砲衆を派遣し、8月4日には布沢城を背後から攻め落とし、氏勝は只見川対岸の水久保城(只見町只見要害山)に退却し、政宗に降ることはなかった。伊達勢は、さらに南に進み25日には氏勝が守る梁取城を攻略し、河原田盛次配下の泉田城も攻め落とした。しかし、それより先は盛次の抵抗に遭い先には進む事ができなかった。また盛次も駒寄城から新たに久川城を築き抵抗の拠点し、伊達勢の1日だけ、伊南古町の駒寄城近くに陣取り、久川城を攻めているが、すぐに田島へ引き返しています。そのため河原田氏とは、大きな損害を受けることはなかった。古町とは、駒寄城時代の町で、新町もあり、久川城側にあったが、後に古町へ戻っています。
 津川の金上盛実へは、石田三成から抵抗戦を促す書状『旧事雑考』も届いていましたが、9月には政宗の配下に属するようになりました。また、長沼周辺では、梅津藤兵へ寄居という小さな館までもことごとく攻めるよう命じています。東には、須賀川城があり、城主の二階堂の背後には佐竹義重と岩城常隆の家臣が送り込まれていた。10月26日、須賀川城は陥落し、周囲の館20余もほどなく伊達勢の手に落ち、南奥羽はほぼ政宗の手中となっています。
 政宗が黒川攻めをしている最中、全国では、秀吉による天下統一が着々と進んでいました。摺上原後の7月4日、秀吉から政宗宛に会津乱入を責め、釈明を求め、同時に上杉景勝へは場合によっては伊達討伐の軍を出す命令をしています。13日には、僧良覚院栄真を使いに富田知信、前田利家らが政宗へ葦名攻めの弁明を促している。しかし、政宗は動ぜず、勢力拡大に奔走する。政宗と敵対する景勝へ秀吉は、政宗との境目を警戒するよう指示し、10月2日には政宗へ上洛を促している。政宗は上郡山仲為を上洛させ、秀吉側近の前田利家らへの進物や浅野長政宛に葦名攻めの弁明をしたが、秀吉は納得せず、11月から12月にかけ10回に及ぶ上洛を催促しています。それにも関わらず、政宗は小田原の北条氏と手を組み、勢力拡大を目指し、佐竹攻めを伺っていた。秀吉は小田原の北条攻めを開始し、3月13日に斉藤九郎兵衛が前田利家、木村清久の書状を持参し、黒川の政宗の元にもたらされた。25日は談合があり、上洛を決意し、26日には守屋、大関大学を先発隊として上洛させています。

 政宗毒殺事件は西御殿(西出丸)であった

 4月5日、上洛前日に母の保春院に招かれ事件は発生する。『伊達天正日記』には「御東へ御出也 御虫気にて御帰候 則御平元にて候」とあり、母のもとへ出かけ、虫の息で帰ってきたが、すぐに元気になったと書かれています。このことから、毒を盛られたのを察知し、毒を盛られた振りをして帰ったことを意味する。『伊達治家記録』では、母の居る「御西館へ御饗応として」と、西舘(『蘆名時代黒川城市図』の西出丸部分に西御殿とある場所が西館である)へ出かけ箸を取ったところ「すなわち目開き、血を吐いて気息絶入す」とあり激しい腹痛が襲い、解毒剤の撥毒円を服用して一命を取り留めたとしている。『伊達天正日記』には、2日後の7日に、小次郎の守役小原縫殿介を惨殺したのみ書かれています。『伊達治家記録』では、6日に政宗が弟小次郎を殺し、母はこの日夜に兄最上義光の居る山形城へ逃れたという。この事件は母保春院が、小次郎と図り、会津周辺や秀吉といざこざが絶えない政宗を見限り、政宗を亡き者にし、弟小次郎を立てることにより伊達家存続を図ったのです。

 小田原参陣

 小田原参陣を目指していた政宗は、4月12日は絵図を広げ大地(おおち・大内)を目指し、15日には政宗も大地へ到着し小田原へ南下する様子があった。しかし、佐竹勢や最上勢が攻めてくると考え、また、北条の支配地を通過するのは北条に加担したと見られる恐れもあり、黒川へ引き返し、国境の守備固めをしています。これより先、4月3日、秀吉の小田原包囲は完成していました。遅れをとった政宗は、5月9日、黒川を出発し敵対する景勝に頼み越後、甲府経由で小田原へ向かいました。6月5日、小田原に到着した政宗は、秀吉への拝謁を許されず、底倉へ閉じ込められた。政宗は、家康に金などによる貢物で家康を味方につけ、家康は弁明に徹するようになったことから、ようやく許されると、6月9日、秀吉と会うことができたのです。会津、岩瀬、安積などが没収されたものの米沢、伊達の領地は安堵されました。

 その後の政宗

 その日、政宗に同行していた旧二階堂氏の家臣矢田野伊豆守は、かねてより政宗に反感を持っていたことから佐竹義重の陣に駆け込み、弟の矢田野安房も大里城(天栄村大里)に約500人で籠城を始めます。『伊達治家記録』には、6月25日には政宗は黒川に帰ってきます。その日、矢田野氏の羽黒館は攻められて落城するものの大里城へ籠城しました。7月4日には、この事件に激怒した政宗は、伊達成実ら5000から10,000人で大里城を攻めたが落とすことは出来なかったのです。大里城は、国道294号線脇にあり、東西、南北約250m四方のそれほどの小さな山城です。7月5日には小田原城は落城し、秀吉は奥羽仕置きのため、黒川を目指した。政宗は、浅野氏から黒川まで幅三間の太閤道の整備や木村氏から秀吉の寝所となる御座所の整備と食糧の御上米を申し付けられる。街道筋に位置していた大里城は、政宗としては落としたかったものの結局落城する事はなく、8月7日秀吉が、長沼城は入った日に、矢田野氏が城に火を掛けて退却しました。後に矢田野氏は佐竹義重を頼り秋田行き、二階堂と名を替え、現在も角館に屋敷がある。7月13日、政宗は黒川去り米沢に向い、会津支配は終了し、政宗の関東進出の夢は破れ、以後、家康には忠誠を誓うようになります。
                                                                               文責 石田明夫  
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