考古学から見た「会津の歴史」


    背景は「神指城」二ノ丸北東のケヤキ・樹齢約600年
       最新の調査成果・新発見





















 
NAKAMURASIRO SASAYAMA07 bonari
阿賀町の中村城  戸ノ口原の塹壕跡   母成峠頂上の塹壕跡
 2017年5月3日(水)新潟県東蒲原郡阿賀町日出谷中村において、16世紀中頃に築かれた山城「中村城」を新発見しました。比高差は約125メートル、山頂に馬蹄形の平場を5段確認しました。会津の葦名氏家臣金上氏配下の波多野氏がいました。同行遠藤 2017年5月4日(木)福島県会津若松市河東町八田の笹山原において、戊辰・会津戦争(1868)に築いた長さ10メール塹壕跡を新発見。今回で戸ノ口原に会津藩が築いた塹壕跡は8カ所になりました。まだあると思います。 台場の跡と思われるものもありました。同行遠藤  2016年5月8日(日)福島県郡山市熱海町の母成峠で山頂付近東側において、戊辰・会津戦争(1868)の時会津藩が築いた長さ30メートルの塹壕跡を新発見しました。山頂付近には、戊辰の遺構としては、全国最長の合計約420メートルの塹壕跡が残されています。単独調査




今までの成果・発見遺構


bonara tonokuchi jingamine
母成峠の防塁と塹壕  戸ノ口原の塹壕  会津新選組の陣跡 
1868年8月21日(現在の10月6日)東軍約800人と西軍3千人が戦った戦場跡。峠の頂上に約420メートルの防塁(1600年に造られたものを改修)とざんごう跡、中軍山には台場、勝岩に新選組の陣跡が残る。 石田発見 1868年8月23日(現在の10月8日)白虎隊や敢死隊などの会津藩と西軍が戦った戦場跡。会津藩では8カ所の塹壕跡(最長のが100メートル)があり、西軍の塹壕跡(54メートル) もある。いずれも1日で構築している。石田発見 1868年9月1日会津新選組の齋藤一らと旧幕府軍の大鳥圭介、長岡藩、会津藩で守備していた。西軍は長州が新潟県より進攻。峠には、段上に平場が構築されている。石田発見・看板あり

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