石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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 こうざしじょう 
 神指城
      
 上杉景勝と徳川家康との対立
 蒲生氏郷の死去(一説には毒殺)に伴い、子の秀行は、慶長3年(1598)1月10日、宇都宮へ移され、代わって越後から上杉景勝(かげかつ)が120万石で会津に入ります。(一石は、一俵60`で2.5 俵分。現在の政府米値段18,000円で換算すると120万石は、約540億円。H17年度会津若松市の財政規模は約407億円)3月3日、上杉景勝は、石田三成とともに若松に入ります。名参謀の直江兼続(なおえかねつぐ)は米沢に入ります。慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が死去します。
 慶長4年(1599)1月、徳川家康は、味方に引き込むべく、伊達政宗と福島正則らに婚姻の約束をします。1月24日、毛利輝元・上杉景勝・前田利家・石田三成と家康とが対立し、関ヶ原へと向かう要因になります。3月3日、前田利家が死去し、子の利長は、のちに家康の策略により家康方となります。9月1日、兼続は、滋賀県三和山の石田三成と密談し、家康との対立構造を明確にします。9月23日、兼続は、家康との戦闘準備に入り、金1376枚(13,760両。10月31日現在の価格1c2.400円で換算すると、約5億4000万円)を用意します。そのうち金800枚は(現在の価格に換算すると約1億7,345万円)蔵方に渡し、残りの金576 枚は兼続の手元に置いて、上杉軍の軍資金としました。
 慶長5年(1600)2月2日、景勝は、福島県中通り地方の諸城普請を春から夏までの間に済ませるよう指示します。
2月10日、景勝は、兼続に、向羽黒山城の改修が終了したことから、若松城では、城下を拡張する事が出来ない事や、東日本の経済都市、中心都市にしようと新城(神指城)の築城を命じたと考えられます。豊臣家では、中央の大坂城、西の広島城、東の神指城の計画があったとみられます。3月18日、家臣団や、常陸国の佐竹義宣(よしのぶ)家臣300人の応援を受け、築城を開始します。このころから上杉と佐竹とは親密となります。
 4月1日、家康は兼続に対し、上洛の催促と、諸城の改修理由について質問状を出します。14日には、兼続が返事を書いています。4月27日、家康は兼続の返書に激怒し、会津進攻を決意します。5月3日、家康は諸大名に会津出征を命じます。5月10日、神指城の二ノ丸の工事を領内の人夫約12万人を動員し、開始します。6月1日には、神指城の本丸と二ノ丸の土塁と石垣、水堀と門が完成します。6月10日、景勝は、神指城の築城を中止し、家康に対する臨戦態勢を命じます。とくに、白河、栃木県藤原町の横川、福島に家臣を派遣し、城の改修を指示しています。
 神指城は、平面図からも若松城の2倍、約55haの面積を有し、毛利輝元(121 万石)の広島城に近い形をした本格的な近世城郭を目指していたことが分かります。石垣は東山の天寧(てんねい)から運んでいます。その道はいまでも「石引き道」と呼んでいます。
 7月10日、景勝は白河の城塁修築を急がせ、家康との戦闘に備えるよう指示します。現在防塁跡や陣跡が、白河市の石阿弥陀地区、岩瀬郡長沼町の勢至堂峠・堂谷坂(どうやざか)、岩瀬郡天栄村の馬入(ばにゅう)峠、栃木県日光市藤原町の横川、会津若松市の安藤峠、伊達郡桑折町(こおりまち)の西山城に土塁や堀跡が残っています。このことからも本格的に家康と戦争をする覚悟であったとようです。
 7月19日、豊臣方が伏見城を取囲みます。24日、家康は栃木県の小山まで攻めてきます。同日、宮城県の白石城を伊達政宗が攻め落とします。7月25日、家康は、石田三成らの征伐を決意します。

      なぜ、神指の地を選んだか
 当初は会津盆地中央の湯川村北田に築城しようとしましたが、その場所は、北田地区と日橋川との落差が5mから10mあることからで、水堀や運河を引けなかったからです。その築城計画は、景勝が会津入った慶長3年からあったようで、秀吉が死去する慶長3年8月より前、4月や7月にも領内の道路や橋、諸城の整備を命じています。家康との対立が表面化する以前から橋や城の整備をしています。居城の整備は、まず向羽黒山城という最後の砦になる山城の整備から取り掛かったようです。また、国重文の『塔寺長帳』には城下町の整備のために十三の村を移転した記録があります。広さは現在の神指町に等しいものでした。なお、向羽黒山城の整備は、2年を要しています。それが終了した慶長5年2月になると神指城の整備に入るのです。

     城の整備範囲と、移転させられた13の村
 移転した村は、『塔寺長帳』に「十三の村引き倒し」とあることから事実のようで、西城戸、東城戸、小見(おみ)、天満、如来堂、鍛冶屋敷、深川、柳原(やなぎわら)、高瀬、上神指、東神指、下神指、横沼の13村とみられます。それらの村の中には、もとは別な場所にあったという言い伝えがあるようです。移転範囲は、西は阿賀川、東は湯川までで、北は高久より南までです。高久は現在地より北東に位置し、慶長18年(1613)に現在地に移っているため、移転対象になっていないことから、城下町の範囲は、これより南のようです。南の幕内は、寛文10年(1633)に対岸の北会津から現在地に移転していることからこの村より北が移転対象になっていたようです。それらのことから、南北約5km、東西約1.5kmの範囲で面積は500haから750haのようです。なお、その範囲には、文禄3年(1594)に蒲生氏郷が調べさせた『高目録帳』に書かれている村のほとんどに存在する中世城館が、存在していないことからも、村が移転させられ、整地されたことで城館が消滅したようです。
 移転した村、または関ケ原後に元に戻った村として次があります。高瀬が湯川村の高瀬へ、西城戸・東城戸は湯川の東側市内神指町黒川へ、深川が南西約2kmの現在地に移転。南の小見・如来堂・鍛冶屋敷は、阿賀川対岸の北会津にありました。北の横沼は、現在地より北東2kmの地にありました。河東町の新屋敷(慶長3年成立)も上杉時代に移転した家を集めて開かれた村です。天満は、北会津の天満へ移転しています。

      城の本丸は総石垣であった
 石垣は、『旧事雑考』によると本丸は、東西100歩、南北170歩、塁の幅が6丈(18m)、高さ3丈5尺(10.5m)あり、東・西・北に門が開き、四方を石垣で囲み、23歩の濠が廻っていた。二の丸部分は、東西260歩、南北290歩、塁の幅9丈(27m)、高さ2丈5尺(7.5m)、四方に門が開き、20歩の濠が廻っていた。この文献からすると、本丸は石垣で囲まれていたことを示し、門は二ノ丸まで完成していた事を示しています。現在残る土塁は、本丸が、北側で高さ7.5m、幅は37m、二ノ丸は高瀬の大木部分で、高さ5.2m、幅43mあります(石田実測)。記録と高さが異なるのは、ほ場整備で周りの水田が埋められ約2m高くなったためです。また、本丸部分は、外側部分に拳大の石垣の裏込め石が頂上部分まで存在すること、外側裾部には、所々に石垣が残っていることからすると石垣は高く積まれていたことが分かります。
 地元住民の話に、昭和40年代のほ場整備以前は、本丸土塁の裾から庭石や土台石に使用するために石を持ち去り、北東部部には長さ約20mの石垣が残っていたという。現在でも北西部分に石垣が残っています。さらに、本丸では、石垣を土塁頂上まて運んだスロープがジクザクに幅約2mで残っています。(石垣は通常内側から積みます)二ノ丸については、石垣の伝承や痕跡は、今のところ見られませんが、門部分は石垣であった可能性があります。
 石垣は、東山町の石山から運んでいます。その場所は、現在でも石切り場として残り、若松城の石もここから運んでいます。その道は石挽道という石畳で約300m残り、昭和初期まで石を運んだ木製の修羅がふもとの家に残っていました。
       神指城は、慶長6年に景勝みずからが破城
 石垣は、その後どうしたかといいますと、慶長6年に、家康の命で神指城は破城されます。門は破壊され、石垣の一部は堀に埋めたか、崩されたものだが、周囲まで完全に崩すことは通常しない事から、破城は門部分に限られていたとみられます。周囲の石垣は、若松城に運んだのがあると考えられます。若松城には、蒲生秀行が慶長7年から慶長13年頃までに、若松城の本丸と外郭(外堀)を整備した石垣に使用したとみられます。神指城の石垣を撤去し、破城して若松城の改修に使用すれば、一石二鳥になること、石の大きさを揃える必要がないためです。ただし、使用された場所は、同じ石材のため若松城での区別はできません。周辺の農家には本丸から運んだ石があります。

       景勝の同盟軍について
 上杉景勝は、石田三成や毛利だけでなく、佐竹義重とも同盟を結んでいました。それは、義重が領内や栃木県東部に築いた城が示しています。その城は、明らかに対家康の進攻にそなえるものです。それは、義宣が、秀吉や三成から信頼が厚く、常陸の統一に大きな後ろ盾となっていた事や、家康の勢力拡大を警戒していた三成と、上田の真田昌幸、上杉景勝らと利害が一致したことによります。また、義宣は、家康が滅べば、関東への勢力拡大につながると考えたからです。そして、神指城の築城に家臣の車丹波守猛虎ら築城に関係する職人と兵士合わせて300人を派遣しています。向羽黒山城跡の三日町は佐竹から移住した村があります。景勝の家臣で、田島の藤田信吉が、慶長5年3月23日、家康方に走り、「景勝に逆心あり、義宣は景勝に内通している」と徳川秀忠に報告していることからも伺えます。また、義宣の弟は、葦名氏最後の領主義広(後盛重と名乗る)であり、福島県南部を伊達氏に取られた恨みがあり、家康と仲の良い政宗を嫌っていた。慶長5年に義宣は、景勝援護のため棚倉町の赤館東に大規模な陣を築いています。その陣は発掘調査でも判明し、一部土塁や堀跡が今でも残っています。なお、佐竹氏は関ケ原直後までこの陣を退却しませんでした。佐竹氏は、後に秋田県へ移されています。

       新選組について
 明治元年(1868)、神指城の二ノ丸、如来堂付近に居たとき、新選組の斉藤一(山口次郎)、後の藤田五郎ら約15名が戦っていますが、大けがはしましたが亡くなった人は確認されていません。新政府軍に取囲まれ攻められたものです。
 
       関ヶ原後の上杉氏
 郡山市湖南町と天栄村の境に残る防塁跡などからも、景勝は、本格的に家康と戦争をする覚悟であったようです。しかし、県内での家康との直接対決はなく、関ヶ原後は、家康側近の本多正信を仲介に蔵方の金800枚を有効活用し、上杉家の延命措置に奔走したことは言うまでもありません。家康が本当に45,000の大軍で会津に攻め込んだとしても、景勝が築かせた白河や栃木県藤原町の一次防塁線、長沼城から郡山市湖南町に築かれた二次防塁線、同盟の佐竹方による側面攻撃により、景勝が勝利していたことでしょう。近年、関ヶ原でも上杉氏と同様な防塁が発見されています。
                                                               文責(石田明夫)
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 神指城二ノ丸
     神指城本丸の石垣
 二ノ丸土塁上には、城が造られる以前からある樹齢約600年のケヤキ「高瀬の大木」があります。 神指城本丸に残る石垣。石は、市内東山町慶山から運ばれた。石質は、「溶結凝灰岩」直径約1m。石垣は、破城後若松城へ運ばれたと考えられます。
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昭和38年代の航空写真 左は大川(阿賀川)個人蔵。
右図のアミ部分は現存する部分

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発掘調査で見つかった石垣です
本丸北西部分
「神指原古城之図」
江戸時代の絵図、個人蔵
 平成2・3年に(財)県文化センター(現、県埋蔵文化財調査事業団)で本丸の北東コーナー部分が発掘調査されています。
               上杉時代の歴史年表があります。右の文字をクリック  会津史年表
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1600年築城 馬入峠防塁
1600年築城 堂谷坂陣
1600年築城 母成峠防塁

          交通案内
  会津若松ICから、R49西へ、突き当たりにあり。車で5分です。
二ノ丸上には国天然記念物で樹齢約600年のケヤキがあるので目印にしてください。鬼門にあり、この木を基準に縄張りされたとみられます。
本丸はやぶと畑になっています。
パンフレットはありません。このページを使用してください。
看板は、ケヤキの部分と本丸南東にあります。
                                                                 図・文責 石田明夫
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