石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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 娘子隊とは

婦人決死隊・女隊(おんなたい)・娘子軍(じょうしぐん)の結成 

  『会津戊辰戦争』水島菊子談 81歳の談(年齢は数え)より
 藩士依田駒之新の婿、源治は伏見で戦死。妹の水島菊子は、義兄の敵として仇打ちの機会をうかがっていた。門奈治部の婦人梅子より薙刀を習っていたのが6人から7人いました。 時を同じくして、赤岡大介の門下生、中野竹子・優子ら二十余人が国の危機を見て忍びず、「婦人決死隊」を結成。しかし、一定の指揮者は無く、婦人の一団と称するにすぎなかった。会津藩士の婦人の中で、中野こう子(44才)、子の竹子(22才)・優子(16才)、依田まき子(35才)、水島菊子(18才)、岡村すま子(30才)ら20余人で構成された女性だけの隊で自分たちは「娘子軍」と呼ぶ。
 『会津戊辰戦史』藩では、女子が戦いに参加するのは許さず、正式な隊でなく「女隊」と呼んでいました。
 水島菊子は、母を女中に頼み農家に避難させます。髪を斬り、しかと束ね、白鉢巻、白襷を掛け、稽古で用いる義経袴に一刀を横にし、薙刀を掻い込み、姉ともに太刀4・5振りを抱え家を出ました。
 城の城門は閉ざされ、入れなかったので、弾の中、西へ走った。十八蔵は燃え上がり、侍屋敷も火災。無腰の人に太刀を与え、米代一之丁を通ると坂下の玉木家に滞在していた中野親子三人と出会い、次いで岡村まき子と合流。6人落合い、着物が雨に濡れ、重く疲れていたところに、城中より来た侍が、
 「照姫様は坂下驛へ御立ち退きになった」

と聞き、一同坂下へ向う。ご飯と万願寺鯉を料理してもらう。

  8月25日、神指(こうざし)での戦い

25日、今日こそかねてのうっ憤を晴さんと、勇んで身支度をし、中野こう子・竹子・優子、岡村まき子・咲子、水島菊子の六人はそれぞれ色の違う義経袴(はかま)と着物、白木綿の鉢巻、二重の襷(たすき)をかけ、大小の刀に白足袋に草鞋(わらじ)をはき、薙刀(なぎなた)を掻い込み寺を出ました。近所の老婦女子も大勢来て涙を流しました。
 坂下の陣屋に寄り、古屋作左衛門の率いる衝鉾隊(しょうほうたい)に加わり、城下を目指しました。
 涙橋の長州・大垣の敵は。川の両方に胸墻(陣地)を築いて堅固に守備していました。
 敵を攻撃し始めたのは、夜の9時頃。また家老の萱野様一隊が東の米沢街道方面より、砲撃を始めました。
 柳土手に敵兵が盛んに鉄砲を撃ち、味方もこれに向かって打ち合いました。
 接戦途中、敵の隊長らしき者が、女と見て「討たずに生捕れ」と激しく、声を上げると、敵兵ども、にわかに私どもめがけて群がり、幾重にも囲みました。「生捕られるなら 恥辱を受くるな」と大音声にお互い呼ばりつつ、必死となり当るを幸いに、斬りまくりましたが、竹子さんはついに、額に弾丸を受けて、倒れました。
 私、優子は母の近くで、にて、少しは敵を斬ったと思いますが、母がヤラレタというので、母と共に薙ぎ払いつつようやく姉の所に近づき、介錯をしました。坂下に帰る途中首を持ってくれたと記憶しています。
 これを見ていたこう子さんは、怒り心頭に発し、獅子奮迅の勢いにて、これに近づき、ようやくその首を介錯されました。この間、戦闘は2、30分ぐらいであった。場所は乾田で、柳橋の北六丁離れた湯川より。

 鶴ケ城籠城戦
 優子は、25日の晩から27日までは坂下に居て、28日に皆様とともに入城しました。
 菊子、殿様に鯉七尾を献上せんと、家老萱野様より附けられた二名の侍に護送され、城下に入り、大町通りから割場、西追手門に至り、合言葉にて開門させ、しばらく入城しました。この時の私たちのいでたちは、断髪を無造作に束ねたものと振り乱したままの人とが、血汐に染んだ破れた着物に、血の付いた薙刀を抱えていました。この時、山本八重子は鉄砲を貸してくれた。
 入城すると直ぐに鯉を献上し、鉄門にて殿様に拝謁を賜り、大そうお褒めに預かり、御手から柿の実を下され、また照姫様にも拝謁仰せつけられ、有難い言葉を賜りました。
入城中、八重子さんより借りた鉄砲にて敵を狙撃。その他には、弾薬の運搬をしていました。
 私と優子さんは、男装をして年齢も若かったので、白虎隊と間違われていました。
 ある日、口火の付いた大きな砲弾が、小田山より来て、多数負傷者のいる縁の下に入りました。これを見ていたこう子さんは、直ぐに手桶を提げて、これを追いかけ、ザブンと水を注いで口火を消されたので多数の負傷者が助かりました。
 総攻撃後、こう子さんは、手を洗う暇もなく、常に血だらけの手にてお握りや田螺などを食べつつ働いていました。この時から、焼け弾の破裂を防ぐのは婦人や子供の仕事となりました。 石田明夫 


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