石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 

春日部市と春日部氏そして平塚

春日部市と春日部氏
 春日部市は、春日部氏に由来します。さかのぼると、奈良県の春日神社に使える「春日の部」であり、それが、奈良時代には、千葉県の九十九里浜内陸周辺に住むようになり、郡の役人として強大な力を持っていました。そして、鎌倉時代後半には、春日部氏周辺に住むようになります。
会津若松市の春日部氏
 会津若松市高野町平塚は、磐越自動車道会津若松インター北側に位置する戸数8戸の田園に囲まれた集落です。そこには、春日部氏2戸、石田2戸、神林2戸、小林1戸、吉川1戸が住んでいます。
 春日部氏は、埼玉県春日部市と関係が深く、南北朝時代から春日部氏が代々住んでいたことに由来します。初代南朝方の春日部重行は、新田義貞とともにか鎌倉幕府打倒に力を貸しています。しかし、南朝方であったことから、延元元年(1336)6月30日、戦死し、長男家縄が春日部市の最勝院に墓を築きます。以後、春日部市付近の春日部郷を領地とし、浜川戸城を築き、居城とします。また、八幡神社や稲荷神社も建てています。
 戦国時代末、岩付(岩槻)の太田氏の配下となりますが、天正18年(1589)豊臣秀吉の後北条攻めにより、後北条配下の太田氏、春日部氏は破れ、春日部氏は春日部の地を後にし、新潟へ移ります。
 その後、慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封に伴い、会津に入り、平塚の地を貰います。上杉氏移封後も会津にとどまりました。
 昭和29年、春日部町は周辺の村と合併し春日部市賀誕生しました。
 春日部市の人口は、約21万人、会津若松市の人口は約13万人
 春日部氏は、その後、江戸時代の初めに、会津若松市高野町平塚の葦名氏配下の平塚氏が住んでいた平塚館の地をもらい、定住することになります。その時の家臣は、石田氏と神林氏の二人だけとなったようです。現在も、館跡に春日部氏が住み、分家と春日部氏、家臣の石田氏、神林氏がそれぞれ2軒つづとなりました。小林は、後に新潟県より入り、吉川は平塚屋敷より入りました。
 春日部氏は、日本水彩連盟の創始者の1人でもある春日部たすく氏の生家でもあり、現在でも当主が住んでいます。
 平塚は、東北で最も美味しい米を生産しています。もちろくコシヒカリです。
希望の方にはお分けします。
平塚と春日部氏
 平塚の由来は、葦名氏家臣の平塚氏が館を築き住んでいたことによります。平塚氏は天正17年(1588)の伊達政宗の会津侵攻時には、会津若松市町北町中地へ移っていました。
 春日部氏は、平塚の地に平塚姓が無いのに憂慮し、平塚の地に中地から、平塚氏の関係する人物を呼び寄せ、平塚の分村である平塚屋敷を開拓します。また、江戸時代には、会津若松市高野町上沼を開拓して分村としています。
                                                                 文責 会津若松市石田明夫
家の近くにある平塚
稲荷神社
春日部たすくの生家「平塚館跡」春日部家
 故春日部たすくの好きだった「白猫」
 絵のモデルにもなった平塚薬師堂
 たすく氏本人の談

ホームページのトップへ