石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 

東山、地名の由来
東山
 若松の東公民館にあることから「東山」と呼ぶ。西山は柳津方面、北山は喜多方方面、南山は南会津の山間部を指します。東山には、羽黒山があり羽黒神社と東光寺があります。日が昇り、光が指す場所にあることから、東光寺と付けられました。
石山
 若松城や神指城の石垣を切り出した山が、慶山の裏にあります。そのため、石切場が現在も残り、そのため石山と呼ばれました。慶山から天寧にかけて「石引き道」がある。運べなかった石が、若松ガス近くに今でも残っています。
湯本
 温泉の源泉があることから湯本と呼ばれました。
湯川
 温泉が湧き出る川のため湯川と呼ばれました。湯川は、羽黒川とも呼ばれていました。また、天寧からは東公民館南側流れる「分川(雁堰)」、工業高校北側の「車川」、「湯川(押切川)」の3本に分かれていたものを蒲生氏郷が、文禄元年(1592)に車川の部分を外堀に造り替えました。
背あぶり
 湊の原の人は、朝背に日を浴び、夕方背に日を浴びることから、背中炙りと呼ばれるようになりました。関白平は、昭和に入って、ケーブルカーが出来、観光的に売り出す時に付けた名前。天正18年8月、豊臣秀吉は、全国統一の最後として、奥羽仕置きを黒川(若松)ですることにしました。そのとき、小田原から黒川まで道と橋の整備を命じ、関東は水戸の佐竹義重に白河から黒川までは、伊達政宗に整備を命じ、幅3間の道と秀吉の寝所の整備している。整備に当たっては、豊臣秀頼ら5人が先遣隊となっていました。山間部の緩やかな部分には、今でも3間太閤道が残り、原や天寧にもある。急傾斜の場所は幅1間の所もあります。
天寧
 古くは天寧寺村『天寧寺風俗帳』と呼ばれていたものを江戸時代の前半に寺を省き天寧と呼ぶようになりました。明治時代には、裏山で石切が行われました。天正18年(1590)には、豊臣秀吉が背炙り峠から、天寧の集落内を通り黒川の興徳寺へ入っています。また、野郎ヶ前の下流には「山陽坊河原(天寧寺河原)」があり、古来よりの斎場であった。最も新しい記録は、慶長5年(1600)に山形の最上氏家臣を処刑した記録があります。なお、天寧寺町は、天正17年(1589)に伊達政宗が天寧寺と黒との間に開いた町。 天寧の由来となった天寧寺は、応永28年(1411)葦名氏10代か11代の盛信が建立した曹洞宗の寺。天正17年(1589)には、葦名氏とともに天寧寺も去り、一年間伊達家の菩提寺「輪王寺」となっていました。天正18年(1590)8月には、豊臣秀吉がこの寺を訪れた時、寺で絵画を秀吉に献上しようとしてが、絵画のすばらしさに感激し、寺宝として保管するよう銀を下賜しています。境内には、会津藩家老の田中家と萱野家の墓があり、郡長正の墓もあります。天寧の砂防ダム近くには、天寧寺を開いた葦名盛信の墓があり、その下に太閤道があります。
慶山
 『新編会津風土記』天寧から分かれた村で、桂山寺、後の慶山寺の麓に出来た村で、慶山寺村と呼ばれていたものが江戸時代前半に慶山へと変化しました。桂山寺は、信濃国守護大名であった小笠原長時が、甲斐の武田信玄に破れ、会津の葦名氏を頼って会津に入り、北会津村下荒井の富田家へ一族とも住むようになるものの分けあって家臣に殺されたことからその菩提寺として建立されました。寺は元、北側の沢田にありました。県道沿いの斎藤石材店付近には、江戸後期から大正時代まで焼物を焼いた「慶山焼き」の窯が3基ありました。焼物は、鉄釉の掛かった黒色の焼物でした。
院内
 羽黒山神社と東光寺の境内地(院内)であることから付けられた。『新編会津風土記』には、竹林坊、地蔵屋敷、大仙坊の字名が書かれている。院内には、江戸時代に氷室が堤の場所にあった。羽黒山は、天台宗系の本山派修験の中心地で、北は飯盛山の不動滝から南は大戸岳までの範囲で修行していた。その中心のひとつ。
九文坂
 旧東山小学校から温泉へ向かう坂をいう。苦しかった訳でなく、その坂の荷車代が九文であつたことから「九文坂(くもんざか)」という。

松平家墓所
 明暦3年(1657)に保科正之の長男正頼の墓所として定めたのが始まり、初代正之は猪苗代の磐梯山の御神体を分社し磐梯神社の西に東照宮と同じような土津神社を建て祭られたが、戊辰戦争で焼失しました。この廟には、2代から9代までが埋められています。墓地の区域の南東部には、保科正之と同属の西郷家の墓地があります。
 墓は、中国の儒教の影響を受け、北の守りである玄武(南が朱雀、東が青龍、西が白虎)をかたどった亀石の上に業績を表した碑文を載せ、その北側に名前を書いた表石、さらに奥に漆の棺に入れられ、その周りに石膏と木炭が入れられ、その上に三物というコンクリートのような敲きがされ、その上に八角形の鎮石があります。墓石は、北山石を運び使用しています。中には、運ぶ途中に石が割れ、切腹した者もいます。
 初代保科正之(ほしなまさゆき)の墓だけは、猪苗代町の土津(はにつ)神社(じんじゃ)にあります。墓は2代目だけが仏式(ぶっしき)ですが、外は神道(しんとう)により祀(まつ)られています。中国の思想(しそう)で北の守り神の玄(げん)武(ぶ)(亀石(かめいし))の上に、功績を書いた碑石(いしぶみいし)が乗せられ、その奥に、名前を記した表(おもて)石(いし)、さらに奥に八角形に作られた墓の鎮(しずめ)石(いし)があります。墓は、石と石灰(せっかい)に囲まれた棺(ひつぎ)が埋葬されていると考えられています。石は、河東町北山(きたやま)産の北山石(きたやまいし)をソリの修羅(しゅら)に乗せて運んでいます。
 会津松平家(まつだいらけ)累代(るいだい)
 初代 保科正之(ほしなまさゆき) 2代将軍(しょうぐん)徳川秀忠(とくがわひでただ)4男(猪苗代の土津神社に埋葬) 26年間 土津(はにつ)神霊(しんれい)
 二代 保科正経(ほしなまさつね) 正之4男(仏式で埋葬)13年間 鳳翔院殿(ほうしょういんでん)
 三代 松平正容(まつだいらまさかた) 正之6男 51年間 徳翁(とこお)神霊
 四代 松平容貞(まつだいらかたさだ) 正容8男 20年間 土常(つちとわ)神霊
 五代 松平容頌(まつだいらかたのぶ) 容貞長男 56年間 恭定(ゆうしづ)神霊
 六代 松平容住(まつだいらかたおき) 容頌2男 5ヶ月間 貞昭(すみてる)神霊
 七代 松平容衆(まつだいらかたひろ) 容住長男 17年間 欽文(あきさと)神霊
 八代 松平容敬(まつだいらかたたか) 養子   31年間 中恭(まさお)神霊
 九代 松平容保(まつだいらかたもり) 養子   17年間 忠誠(まさね)神霊
  
七面様
 日蓮宗であった保科正之の母、浄光院が、身延山の七面山(1982メートル)を深く信仰していました。その山上にある身延山は、守護神「七面天女」(七面大明神)が祀られていたことから、その影響を受けた2代藩主正経が墓所の守る裏鬼門(南東)の場所に七面天女を祀りました。その堂までの道を姫街道とも呼ばれました。この社の前を字「牧」と呼ぶ。牧とは、馬の放牧地を意味します。
湯本
 温泉に由来するとおり。『異本塔寺長帳』に延元元年(1336)天寧の奥で温泉が発見されたと書かれた記録がある。
新選組の土方歳三は不動滝の湯に入っています。
羽黒山東光寺
 修験の中心地で、神社と寺とが混在した神仏混淆であったが、今では神社だけとなった。奈良時代より前に開かれたとされています。石段は1225段あり、山頂に本殿がある。明治時代の初めまで仁王門があったが、廃物棄却で、仁王像は新潟県阿賀町上川の日光寺へ移され、現在県の重要文化財に指定されています。本尊は、若松城天守閣で盗難に遭い、最近発見されました。
 高志王神社
 羽黒山入口にある北向きの神社。越の国の王を祭った神社であることから「越王」が変化し「高志王」となりました。
伏見観音・白道院
 歓迎塔の東にあり、芸能人の石原裕次郎や近江俊郎などの芸能人の寄付を受けで建てられた堂があります。
川渓
 本来は川と谷の場所という意味で、深い渓谷の間に位置していたが、現在は東山ダムとなりました。
大巣子
 村の成立は不明だか、村が出来たころ、大きな鷹の巣があったことに由来するという。
一ノ渡戸
 東山羽黒山の修験者が大戸岳へ回遊して修行していた時、最初に渡った橋を一ノ渡と呼んだことから名づけられた村。
中湯川
 二幣地の新村。一ノ渡と二幣地との間にあり、湯川の中間ということから中湯川という。
二幣地
 修験者が、二番目に幣塞を建てた場所であることから付けられました。
天寧寺と伊達政宗・豊臣秀吉
 天寧寺は、葦名(あしな)盛信(もりのぶ)が傑堂(けつどう)能勝(のうしょう)を会津に招き応永(おうえい)28年(1421)に建立した曹洞宗(そうとうしゅう)の寺。寺は、戊辰戦争で焼けたことから近年本堂が再建されました。寺には、室町時代に中国で描かれた「達磨図(だるまず)」と「寒山図(かんざんず)」「拾得図(じっとくず)」があり、県指定文化財に指定されています。また、天正17年(1589)から天正18年(1590)までは、伊達政宗が会津の領主であったことから、伊達家の菩提寺輪(りん)王寺(のうじ)になったことがあります。天正18年(1590)8月には、豊臣秀吉が会津に来たとき、この寺に立寄り、秀吉に絵画を献上(けんじょう)しようとしたが、秀吉は絵画の出来の素晴らしさに感激し、白銀(はくぎん)30枚を与え、絵画を寺宝とするよう伝えたといいます。なお、天寧寺を建立した葦名盛信(あしなもりのぶ)は、宝徳3年(1451)3月18日66歳で死去。墓は、天寧集落の北東、秀吉が通った白河街道より一段高い台地上の雑木林内にあります。
豊臣秀吉の会津入り
 天下人で関白(かんぱく)と言われた豊臣秀吉は、奥羽仕置(おううしお)きのために天正18年(1590)8月9日、東山の背中(せなか)炙(あぶ)り峠を通り、天寧集落へ出て黒川(くろかわ)(若松)に入ります。そこで、田畑の面積を測る検地(けんち)や農民から刀を取上げる刀狩(かたながり)をします。6月には会津を伊達政宗から取上げ、改めて会津を蒲生氏郷へ与えています。この時、秀吉は城へは入らず、興(こう)徳寺(とくじ)を宿舎としていました。領内視察の記録は、天寧寺と金(かな)堀(ぼり)へ出かけています。帰りは、下郷町の大内(おおうち)から田島、栃木県の五十里(いかり)を通って帰ります。
近藤勇の墓
 文久(ぶんきゅう)3年(1863)に幕府(ばくふ)の浪士隊(ろうしたい)が源流となり、会津藩京都守護職(きょうとしゅごしょく)拝命により、配下に新選組が結成されます。慶応(けいおう)4年(1868)1月も鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いで敗れた後、4月4日千葉県の流山(ながれやま)で新政府軍に捕らえられ、25日、江戸の板橋刑場(いたばしけいじょう)で斬首(ざんしゅ)されます。翌月の閏4月8日には、京都の三条川原に首がさらされますが、何者かによって持ちさらわれています。天寧寺の墓は、土方歳三(ひじかたとしぞう)らによって建てられたものです。墓には「貫天(かんてん)院(いん)殿(でん)純忠誠(じゅんちゅうせい)義(ぎ)居士(こじ)」と刻まれています。また、脇には土方歳三の墓も建てられています。新選組は、4月29日七日町の清水屋旅館(現在の大東銀行会津支店、藤田姓)に入っています。翌閏4月には白河城下で戦いますが、5月1日には白河城が落城します。その後、6月8日には、福良(ふくら)に入り、東山温泉の不動の湯(ホテル不動滝)に入り、白河方面での戦いによって受けた傷を癒していました。8月21日、大鳥(おおとり)圭介(けいすけ)らと母成(ぼなり)峠(とうげ)で戦いますが敗戦し、土方歳三は箱館(はこだて)に向かいます。斉藤一(さいとうはじめ)(山口次郎、最後は藤田五郎と名乗ります)らは、会津に留まります。9月4日、神指(こうざし)城(じょう)の如来堂(にょらいどう)で新政府軍に囲まれ、多くが戦死しましたが、斉藤一は生き延び、会津藩士の時(とき)尾(お)と結婚し、松平容保(まつだいらかたもり)より藤田姓をもらいます。72歳で亡くなり、七日町の阿弥陀寺に墓があります。土方歳三は、明治2年5月11日、箱館(はこだて)戦争で亡くなります。
戊辰戦争の敗戦処理と萱野・郡長政
 萱野(かやの)権兵衛(ごんべい) 天保元年(1830)から明治2年(1869)
 明治元(1868)年9月23日、松平容保は、萱野権兵衛とともに、宮(みや)泉(いずみ)酒造前の交差点で、降伏(こうふく)文書(ぶんしょ)に調印し、会津藩の戦いは終了します。萱野権兵衛は、二中の西側に屋敷があり、1500石で会津藩留守(るす)を預かる国家老(くにがろう)であった。家老の田中土佐(たなかとさ)(二中が屋敷跡1800石)、神保(じんぼ)内蔵助(くらのすけ)(会津図書館が屋敷跡1000石)らとともに戦争責任者になるが、他の二人はすでに死亡し、責任者の1人として藩主に代わり、明治2年5月18日、東京の久留米藩(くるめはん)有馬(ありま)邸(てい)で首を切られた。40歳でした。墓は、東京芝の興禅寺にあり、後に萱野家菩提寺の天寧寺も建てられました。(ソニーの井深(いぶか)は550石)
 郡(こおり)長政(ながまさ) 安政3年(1856)から明治4年(1871)
  萱野権兵衛の長男で、初めは乙彦といいました。萱野権兵衛が明治2年に死去すると、家が断絶し、母方の郡姓を名乗るようになります。一時、東京の桜田門前の松平家(まつだいらけ)に居たが、大阪の叔父(おじ)(萱野権兵衛の弟三淵(みぶち)隆衡(たかひら)、子の忠彦(ただひこ)は初代最高裁判所長官)の所へ行く。旧幕府の松本良順(まつもとりょうじゅん)から才能を見込まれるほどで、小倉藩(こくらはん)小笠原家(小笠原(おがさわら)長時(ながとき)の菩提寺は東山町の大龍寺(だいりゅうじ))には、日新館(にっしんかん)に匹敵(ひってき)したすぐれた藩校(はんこう)育徳館(いくとくかん)があり、会津藩士7人の教育の申し出があり、その1人に人選されました。育徳館でも才能を発揮したが、母に宛てた手紙に、食べ物のまずさ(本当は味付けの違いを書いたものという)を書き、その返事に戒めの内容が書かれ、それを誓(ちか)うところがあり、肌身(はだみ)離さず持っていた。ふとしたことから、母からの手紙を小笠原藩士の子に拾われ、その内容が明らかになると「客の身分でありながら食べ物の不平を言うとはけしからぬ」という話が広まった。長政は、「ならぬことはならぬ」の精神のもとに、死を持って抗議し、明治4年5月1日、切腹しました。墓は、名誉を重んじる会津藩の教えに感銘(かんめい)した育徳館の人々らにより、藩校の裏(現豊津(とよつ)高等学校(こうとうがっこう)にあり)に建てられました。天寧寺(てんねいじ)にも墓がありますが、日付は明治4年5月12日となっています。 
                                              文責 石田明夫
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