石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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あいづおおとよう
会津大戸窯

 福島県会津若松市大戸町にあることから正式には「大戸古窯跡群」(おおとこようせきぐん)と呼ばれています。香塩(かしゅう)、南原(みなみはら)、上雨屋(かみあまや)、宮内(みやうち)下雨屋(しもあまや)の5地区に分布しています。会津焼きのなかで、古代と中世にかけて操業した窯跡で、東日本最大規模の窯跡群。南北4.5km、東西2kmの範囲に窯跡確認されたものだけで220基(地点)、推定400基あります。窯跡は、8世紀中頃の奈良時代から、14世紀前半の南北朝時代まで約600年間焼かれていました。ただし、11世紀は操業していませんでしたが、12世紀後半には中世陶器を操業するようになります。窯の温度は、1250℃に達していました。
 古代では、須恵器(すえき)と呼ぶ灰色をした焼物を焼いています。長頸瓶(ちょうけいへい)、杯 (つき)、椀(わん)、蓋(ふた)、盤(ばん)、高杯(たかつき)、甕(かめ)、面円硯(えんめんけん)、擂鉢(すりばち)、佐波理(さはり)、浄瓶(じょうへい)、水瓶(すいびょう)、鳥形瓶(とりがたへい)、大平鉢(おおひらばち)、双耳椀(そうじわん)、焼台に器種が豊富です。その源流になった器種と技術者は、愛知県の猿投窯(さなげよう)からの影響を強く受けています。
 中世では、灰色をした須恵器系(すえきけい)の中世陶器と、赤褐色をした瓷器系(しきけい)の中世陶器を焼いています。珠洲窯や加賀窯、越前窯の影響を受けています。 古代の須恵器は、北が岩手県、南が東京都まで供給されています。とくに宮城県の多賀城跡周辺で、長頸瓶、広口瓶、螺状沈線文甕が出土しています。生産には、陸奥国とその下部組織の会津郡が大きく関わっていたと推定されます。また徳一が開いた恵日寺、勝常寺にも大量に供給されています。中世では、福島県内の南半分に供給されています。福島県指定史跡、約17ヘクタール 



いままでの調査経過

・昭和30年代、会津若松営林署による上三寄林道工事の開設で須恵器が発見されます。当時は、窯跡として知られることが無かったことから、ごく一部の研究者のみ知るだけでした。
・昭和54年には、「雨屋窯跡群の分布調査」として、斉藤徳寿・吉田博行氏によって『法政考古学』に掲載され、専門家では知られるようになれます。
・昭和56年、南原地区で、南原地区大規模果樹園団地造成の計画進み、萩生田和郎氏らによって窯跡が上雨屋地区の南側に位置する南原地区にも多数発見され、広範囲に分布していることが分かるようになります。
・昭和57年には、南原地区の開発予定地を2日間だけ分布調査が実施されます。
・昭和58年には、地元有志により「大戸古窯跡群を守る会」が結成
・昭和58年、国庫補助事業によって、南原・上雨屋・宮内地区の分布調査が実施され『分布調査報告書』が発行されます。
・昭和58年、福島県農業開発公社からの委託で須恵器窯の南原19号・南原25号窯跡の2基が発掘調査され、翌年3月に『南原地区埋蔵文化財発掘調査概報』として報告書が作られます。
・昭和61年には、文化庁の指示により、昭和61年度・62年度に補助事業により再度、窯跡の分布調査が実施されます。その時、窯跡は207地点確認されます。そのことにより古代から中世までの大規模な窯跡群であることが判明します。『会津 大戸古窯跡群分布調査報告書』として報告書が作成されます。
・昭和63年からは補助事業により、国指定史跡の資料を得るため、楢崎彰一先生ら専門家による「大戸古窯跡群調査研究指導会議」が設置されます。須恵器窯の南原33号窯跡、中世陶器窯の上雨屋6号窯跡の発掘調査が実施されます。『会津 大戸古窯跡群発掘調査概報T』として報告されます。
・平成元年には、補助事業により、南原39号・40号窯跡の中世陶器窯が発掘調査されます。『会津 大戸古窯跡群発掘調査概報U』が作成されます。
・平成2年、補助事業により、須恵器窯の上雨屋7号窯跡と中世陶器窯の上雨屋64号窯跡、須恵器工房跡、竪穴住居跡が発掘調査されます。『会津 大戸古窯跡群発掘調査概報V』が発行されます。
・平成4年、補助事業により須恵器窯の上雨屋12号・137号窯跡が発掘調査されます。今までのまとめとして『会津大戸窯』(遺構編)が発行されます。
・平成3年8月には、大戸窯編年を検討のためのシンポジウムを開催することを決定し、『東日本における古代・中世窯業の諸問題』の事前打合せ会を大戸町の芦ノ牧温泉で開催し、全国から専門家約30人が参加します。
・平成4年8月には、大戸窯編年を検討のためのシンポジウム。『東日本における古代・中世窯業の諸問題』を県立博物館で開催。全国から専門家約350人が参加します。
・今までの総まとめとして平成5年3月には補助事業により『会津 大戸窯』(遺物編)を発行されます。
・平成6年9月には、南原地区内の福島県営林で、中世陶器窯跡の一部が破壊されるということが判明します。
・平成7年、県からの委託で中世陶器窯の南原49号窯跡が発掘調査されます。
・平成10年3月には、『会津 大戸窯 保存管理計画書』が発行されます。
・平成10年3月には「大戸窯跡群」として県史跡に指定されます。面積167.934u
・平成15年には、南原68号窯跡の一部と南原73号窯跡などがほ場整備に伴って発掘調査され、『会津 大戸窯 南原73号窯跡』が発行されます。
・平成17年9月には、文化庁など専門家による現地調査などがありました。                          
                                         参考文献『会津 大戸窯 南原73号窯跡』

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9世紀代の長頸瓶は、焼台の痕跡が見られる。
頸部のリング状凸帯が特徴です。



 詳しい会津大戸窯の説明
 
 会津焼きのはじまり
 会津で、最も古い窯跡、7世紀末から8世紀前半にかけての瓦と須恵器を焼いた会津若松市の村北瓦窯跡群です。しかし、古墳時代の埴輪が会津坂下町の経塚古墳などから出土していることからも、古墳時代前期までさかのぼるようですが、まだ窯跡は発見されていません。その後、会津若松市の新田山窯跡が8世紀初頭に操業し、会津美里町の大久保窯跡群や北塩原村の入大光寺窯跡群が続き、最後に大戸古窯跡群(会津大戸窯)へ受け継がれます。
 会津は、古代から近世まで、東北の中で焼物生産を常にリードしていました。古代から中世にかけての東日本最大規模の「会津大戸窯」、安土桃山時代で東日本唯一の大窯の可能性がある「会津大塚山窯」、江戸時代から現代に至る「会津本郷窯」です。会津大戸窯(以下、大戸窯で説明します)は、古代の須恵器と中世の須恵器系と瓷器系の中世陶器を焼いた窯跡群です。大戸窯は、会津若松市の市街地からは、南へ約10`の東側丘陵上に、南北約4.5`、東西約2`の範囲に分布します。南側から香塩・南原・上雨屋・宮内・下雨屋地区の5地区の集落に分かれて分布しています。平坦地から70bから200b高い、標高270bから400bの丘陵上に窯跡はあります。中でも上雨屋地区と南原地区に、須恵器窯跡の2/3が集中し、中世窯跡のすべてがこの2地区に分布しています。
 窯跡は、昭和30年代、当時の若松営林署によって、上三寄林道が開設された際に、一部の研究者に存在が知られることになりました。しかし、一般に知られるようになるのは、昭和56年の南原地区大規模果樹園開発が開始されてからです。昭和57年には、大戸古窯跡群を守る会が、58年には市教育委員会より相次いで窯跡の分布調査の結果が報告され、広く知られるようになり、学術的にも注目されることになりました。同年、市教育委員会では、南原19号窯跡と25号窯跡の発掘調査が実施しています。しかし、分布調査は十分でなく、再度、昭和61年と62年に分布調査が実施されています。現在では、須恵器窯跡189基、中世陶器窯跡36基が確認され、東日本最大規模の窯跡群で、8世紀中頃の奈良時代から、14世紀前半の南北朝時代まで、長期間操業していることが判明しています。また、分布調査では、古代の製鉄遺跡、古代から中世にかけての礎石を伴う建物跡群、中世の墓である集石墓群、中世の山城跡、縄文時代の遺跡も確認されています。さらにも上雨屋遺跡からはも須恵器の積み出し基地と推定される区域も発掘調査で見つかっています。
 会津若松市において、この窯跡群の発見は、会津大塚山古墳に次ぐ歴史上の重大発見であり、その後の日本の考古学や東北の歴史に大きな影響を与えてることになりました。昭和63年から平成3年までは、窯跡群の性格を解明するために、市教育委員会で楢崎章一先生を中心として「大戸古窯跡群調査研究指導委員会」が組織され、平成3年から平成7年までに、須恵器窯跡8基、中世陶器窯跡5基の発掘調査を実施しています。さらには、窯跡に隣接して出された工房跡や竪穴住居跡も発見されています。いずれの遺構も埋め戻され保存されています。
 平成10年3月には、発掘調査が十された区域となる中心部、約16.8fが福島県の史跡に指定されました。文化庁などでは、重要遺跡として国史跡指定を考えています。
 また、平成14年には、県営ほ場整備事業に伴って、新たに5地点(基)の須恵器窯跡が確認され、平成15年に、9世紀代の南原73号窯跡など須恵器窯跡2基と、廃棄された須恵器の不良品や灰を捨てた灰原を発掘調査しています。
 
 周辺のようす
 窯跡付近の地質は、前期中新世から中期中新世の東尾岐層に属し、多くは火山性の特徴を持つもので、流紋岩火砕岩が母岩となり、流紋岩溶岩や細流砂岩・シルト岩及び火砕岩が貫入し、陶土に適した地層を形成しています。須恵器や中世陶器に使用された陶土は、丘陵内の沢に、厚さ約1bで存在しています。西側の阿賀川(大川)を挟んだ会津美里町本郷の会津本郷窯位置し、同じ地質となっています。そのため、大戸窯でも白磁が焼けます。 窯跡が分布する丘陵は、自然林のアカマツが部分的に生えた落葉広葉樹林が多く分布し、落葉広葉樹のコナラは、主に椎茸の原木栽培用に使用され、一部チップ材とされています。窯の燃料に使用していた樹木は、13世紀中頃の南原49号窯跡発掘調査によって木炭樹種同定がされ、広葉樹のクリ材が主であったことが判明しています。当時の燃料として、アカマツは使用されず、生育していなかった可能性があります。

 大きな特徴 
 大戸窯の特徴には、次があげられます。
1、窯跡数が関東や東北地方では、最大規模の窯業生産基地であること。
2、奈良時代から南北朝時代まで、同一地域で須恵器から中世陶器を生産していた窯業地は、東北地方では唯一 であり、そのため、8世紀中ごろから14世紀前半まで(一部空白があり)の生産地編年を可能にし、東北地方の基 準遺跡となっていことです。
3、須恵器は、一般庶民が使用するものから、長頸瓶、水瓶、鳥形瓶など、郡衙や寺院で使用する特殊な製品まで 焼いていることで、器種が豊富であり、愛知県の猿投窯の影響を強く受けていることです。
4、中世陶器は、12世紀末に須恵器の流れを汲む須恵器系から出発し、13世紀前半には、灰釉陶器の流れを持つ 瓷器系の炎を二つに分けた分炎柱を伴うものへ変化しています。窯跡は、10b以上の大きさがあり、トンネル状に 掘った窯に転換しています。生産器種は、甕、壺、擂鉢の三種類を基本としています。
5、窯跡の保存状態が良く、窯業に関する工房跡、竪穴住居跡なども確認され、生産体制と生産工程を把握する上でも良好な遺跡となっています。大規模な窯跡では、全国で最後に残された遺跡なのです。
6、窯跡以外に、同時期と考えられる製鉄遺跡、礎石建物跡群、中世墓地なども存在する複合的な遺跡ともなって います。
7、流通範囲が広く、特に古代陸奥国府の宮城県多賀城跡には大量に運ばれ、北は岩手県、南は東京都まで流通 しています。
 
 須恵器窯
  窯跡は、煙出しの煙道機能を兼ねた焼成部後半に段を持つ、有階有段構造に特徴があります。有階有段上では、小型の杯、椀類を焼成しています。窯跡中央部は、9世紀中頃まで有階有段kトンネル状に掘られ、天井が地下となる地下式の窯跡ですが、それ以降の時期は、天井が半分地上に出るように造られる半地下式の窯跡へ変化します。
 8世紀後半から末頃の南原33号窯跡は、全長4.9bの中小型製品専用の窯跡で、高さ50aを越える大甕などの大型製品は出土しなかった。そのことから、大戸窯では、操業当初の段階から、大きさや器種による窯別の生産分けが進んでいたようです。大型の製品は、上雨屋63号窯跡のように、地下式で煙道が垂直に立ち上がる、直立煙道構造の地下式窯跡で焼かれています。出土品は、椀をやや箱型にした杯、蓋、高台が付けられた高台杯、両脇に取手が付けられた双耳椀、盤、本来は仏教用具の花瓶である長頸瓶、高杯、短頸壺、水や種や食糧を入れた甕、長頸瓶を焼く専用の杯形焼台等があります。
 8世紀末から9世紀初頭頃の上雨屋137号窯跡と、上雨屋12号窯跡は、並行して築かれた有階有段地下式の窯跡です。上雨屋137号窯跡は、全長6.56bの窯跡で、燃焼部の焚口と、焼成部の境界部分の天井が残っていました。
長頸瓶などの中型製品は、窯体内から手渡しで焚口から取り出せるが、大甕などの大型製品の取り出だせず、煙道部の天井部分を取り外して取り出されていました。上雨屋12号窯跡は、全長7.84bで、焼成部には、排水と大型の甕入れる祭の出し入れを楽にするため凹めた舟底ピットとが確認されました。床面は、焼成部前半部分で長頸瓶が焼かれ、中央部では、大型の製品が焼かれていました。焼成部後半から煙道部の段上にかけては、杯が焼かれていました。製品の位置は、窯の内部における温度の変化に対応したもので、焼成温度が1250℃以上の高温になると灰が解けて灰釉が自然に掛かりやすることから、わざと掛かるようにするため長頸瓶は、窯の前半に置かれて焼かれていました。灰原からは、杯、蓋、高台杯、金属器を模倣した稜椀、深杯、双耳椀、仏教用具の金属器である佐波理、鉢、擂鉢、盤、高杯、長頸瓶、甕、大甕、円形をした硯の円面硯、水を入れた細首の水瓶、短頸壺、焼台などが出土しています。
 9世紀前半から中頃の南原19号窯跡は、全長6.9bの有階有段地下式の窯跡で、一部天井が残されていた。焼成部には舟底状のピットが検出されました。灰原からは、杯、蓋、高台杯、深杯、双耳椀、長頸瓶、盤、高杯、擂鉢、甕、大甕、円面硯、ミニチュア、水瓶、横瓶、焼台などが出土しました。窯跡から出土した杯や、焼台の底部には、ヘラで「神」「佛」「開開」「上加」などの文字がヘラで書かれた遺物もありました。
 集落遺跡の喜多方市塩川の内屋敷遺跡から会津坂下町の大江郷を表すとみられる「大江」と書かれた甕、門田町の一ノ堰A遺跡からは「見」と書かれた壺底部が出土しています。
 南原19号窯跡よりやや遅れる南原25号窯跡は、全長7.4bの有階有段半地下式の窯跡です。杯が煙道部の段上で焼かれていました。灰原からは、愛知県の猿投窯で焼かれた灰釉陶器で黒笹14号窯式の第2段階を模倣した椀が焼かれていました。同時期の南原14号窯跡も発掘調査されています。南原19号窯跡、25号窯跡、14号窯跡とも、県の果樹園開発に伴って調査され、その後の造成工事で消滅しています。果樹園開発は、その後行き詰まり、完売することなく多くが売れ残っています。
 9世紀末から10紀前半頃の南原73号窯跡は、煙道部分は検出できなかったが、全長約7b、幅1bの有段式の半地下式窯跡です。調査の結果、窯壁の補修が6回確認され、焼成期間が長かったことを示していました。窯跡内からは、口が大きく広がる広口瓶が出土し、灰原からは、「飛」とヘラ書きされた皿か盤、甕の表面に沈線を螺旋状に装飾されたら状沈線文甕などが出土しました。この窯跡は、埋め戻され保存されています。この窯跡の時期以降、杯や椀がほとんど焼かれなくなるのです。
 10世紀前半から中頃の上雨屋7号窯跡は、全長8.64bの有階半地下式の窯跡で、灰原からは、椀、平高台の椀、壺、大平鉢、広口瓶、甕、大甕、長胴甕等が出土しています。広口瓶や甕類に生産の主力が置かれています。窯跡の周辺には、工房跡と竪穴住居跡が検出されています。窯跡の脇には、焼土や不良製品をまとめて廃棄した付帯施設、窯の補修用に粘土を取った土坑、窯跡の北西平坦地には、工房跡が検出されました。工房跡は、竪穴住居跡であったものを整地したもので、ロクロピット数基と、白色の粘土溜まりが検出されています。ロクロピットは、軸受けが二段となっていました。また、北に隣接して、竪穴住居跡が発見されています。
 10世紀中頃から後半頃の南原57号窯跡は、全長8bの有階半地下式の窯跡で、焚口や窯体を石で補強し、窯体の深さが非常に浅い地上式に近い形態となっています。灰原からは、椀、広口瓶、甕、壺、粘土を丸めた粘土状焼台が出土しています。現在のところ、須恵器は、大戸窯は、10世紀末には消滅するようで、12世紀後半の中世窯開始まで一時生産は停止します。
 
 須恵器の流通範囲
 大戸窯の須恵器は、会津地方が最も多く出土しているが、県内全域の平安時代の遺跡や、宮城県の多賀城跡や岩手県の胆沢城跡などを始めとする東北地方の官衙関連の遺跡から長頸瓶を主に出土しています。最も南では、東京都日野市の落川・一ノ宮遺跡から、9世紀後半の長頸瓶が出土しています。落川遺跡は、武蔵国の国府や国分寺造営に関わる遺跡と考えられる遺跡です。大戸窯は、東北地方各地へ大戸窯の長頸瓶や双耳椀を模倣した製品として、青森県の五所川原窯まで広く影響を与えています。遠隔地に流通している大戸窯の器種は、長頸瓶や広口瓶、徳利の形をした小瓶、ら状沈線文甕が多いようです。多賀城市の三王遺跡や市川橋遺跡では、9世紀に属する長頸瓶の6割が大戸窯産で、3割が宮城県内産、1割が東海地方産か産地不明であり、いかに大戸窯の長頸瓶が好まれ運ばれていたかが伺え、そのことは、大戸窯の生産が、陸奥国の管理下で生産されていたことを示しています。


 中世陶器窯
 中世陶器窯跡(以下中世窯という)は、須恵器の流れを持つ須恵器系の窯跡 2基と、常滑窯や越前窯の系統である瓷器系の窯跡34基に大きく分けられます。それらは、丘陵上に展開する支群単位にまとまって分布し、生産は、1グループが移動して操業したようです。最も古い葭ノ沢群、樋ノ沢B群、下丸A群、中丸A群、中丸B群、谷地平A群、樋ノ沢A群の順に移動し、12世紀後半から14世紀前半まで、操業していました。器種は、甕、大甕、壷、擂鉢、小壷が中心で、硯、卸皿、装飾皿、火鉢、焙烙も焼かれています。生産割合は、生産時期が新しくなると擂鉢の生産数が多くなる傾向があります。
 12世紀後半頃の葭の沢群は、須恵器系の窯跡である。上雨屋64号窯跡と65号窯跡の2基が確認されている。上雨屋64号窯跡は、全長8.0bの有階有段地下式の窯跡で、構造は須恵器窯跡と同じだが、岩盤と粘土層をくり貫いて構築されていました。壁には工具の痕跡がはっきりしていました。また、生産量を増大させるために、焚口部分を手前に引出し、燃焼室と焼成室の面積を大きく拡張していました。窯体内には、工具の痕跡、天井を張った時の支柱の痕跡が認められ、焼成室後半部分は、製品を乗せる焼台の役目をした段が7段確認されました。遺物は、表面に平行叩きのある甕や壺、石川県の珠洲窯を真似た自由奔放の卸し目や放射状の卸し目のある擂鉢、甕や壺です。甕や壷の口縁部は、角状となり端部が外側に広がるものです。なお、須恵器系にしては、酸化炎で赤褐色に焼かれた製品が多数存在していたことから、瓷器系との折衷型のようです。壷の中には、木の葉文、鷺文が描かれたものがあ
り、東海地方の三筋壺を真似た壺、手づくねの小皿も出土しています。当初は珠洲窯と同じ須恵器系の製品で焼成していたものの、途中から酸化炎焼成へ変化したようです。
 13世紀前半頃の樋ノ沢B群は、上雨屋6号窯跡1基のみです。この窯以降分焔柱を伴った地下式の瓷器系窯に転換します。窯跡は、全長14.5bで、焼成室には馬爪状の形と大戸窯独自の煉瓦状の形をした焼台が据えられていました。窯体内からは、大甕3個体、擂鉢が3個体が重なって合計12個体出土しています。擂鉢は、粘土紐巻き上げの無高台で、小型と中型、双口に分けられます。内面は、文様の無い擂鉢と、一本引きの卸目のある双口鉢とに分けられ、体部外面には「田」と工人の窯印が彫られた擂鉢もあります。窯跡の焚口前には、工房跡と推定される平坦な平場があります。
 13世紀前半頃の下丸A群は、5基確認されています。出土遺物は、壺、甕、大甕、内面に卸し目の無い擂鉢と卸し目が1本引きされた擂鉢、蓋、小壺、瀬戸窯の13世紀第2四半期の製品を真似た卸皿が出土しています。壺と甕の口縁部は、端部がやや受け口状に変化していきます。
 13世紀中頃の中丸A群は、10基が南東斜面に並列しています。南原39号窯跡は、全長13b、南原40号窯跡が全長12.77bの地下式窯跡で、4b離れて相互に焼成する兄弟窯の可能性が考えられます。物原からは、壺、小壺、甕、大甕、1本引きの擂鉢、内面に装飾を施した鉢、卸鉢、現在の硯と同じ形の長方硯、大型の盤、馬爪状焼台が出土しました。擂鉢には、この支群から底部に高台が付くものが出現する。また、南原39号窯跡の南から、窯を構築した際に使用したと考えられる鉄製の鍬先が、磁気探査調査によって発見されています。
 13世紀中頃から後半頃の中丸B群は、6基が北西に並列して存在が確認されています。南原49号窯跡は、全長11.5bの分焔柱を伴った地下式の窯跡で、大甕と馬爪状の焼台が窯体から出土しました。物原からは、壺、甕、大甕、小壺、擂鉢が出土しています。擂鉢には、卸目のあるものと無いものとが混在するようです。南原49号窯跡の生産個数は、1窯当たり約110個と考えられています。
 13世紀末頃から14世紀初頃の谷地平A群は、放射状に6基存在が確認されています。採集された遺物は、壺、甕、大甕、擂鉢、馬爪状焼台などがあります。この支群の壺と甕の口縁部は、越前窯の製品と見分けが付かないほど調整や色調が良く似ています。
 14世紀前半頃の樋ノ沢A群は、放射状に四基存在する瓷器系の窯跡です。窯跡の傾斜角度は、発掘調査を実施していないことから判明していませんが、中世窯の中では、最も緩い傾斜であり、窯跡の落ち込みの長さも最も短いものとなっています。採集された遺物は、壺、甕、大甕、擂鉢、馬爪状焼台である。壺や甕類の口縁部は、端部が最後まで折り返しとはならず垂れ下がらない形態で終わってしまう。擂鉢は、内面の卸し目が隙間無く施条され、高台が伴うようです。
 中世窯は、14世紀中頃以降になると焼成が確認できない。同様なことは、東北地方の諸窯でも同じ現象が認められ、東日本全体が常滑窯や越前窯等の流通に押され、生産は停止する。その後、東日本唯一の16世紀末大窯、会津大塚山窯まで東北地方の陶器生産は中断します。

 中世窯の流通 
 須恵器系では、町北町の屋敷遺跡や門田条里制跡、猪苗代町の三城潟家北遺跡、猪苗代町の白津で経筒外容器が出土しています。瓷器系では、喜多方市の岩月町や河東町熊野堂で銭甕として使用されたのが出土しています。郡山市の富久山町では、鎮壇具を埋めた甕が出土しています。流通範囲は、中通り北部に東北窯が存在することから、県内の南半分に限られるようです。
 会津では、12世紀から常滑窯が流通していますが、14世紀末になると金山町の中川経塚のように本格的に流通を強めてきます。そして、大戸窯の中世陶器は東北地方の諸窯同様、生産を中止します。
 
 時代的背景
 平安時代末の会津地方は、恵日寺の衰退と支配者の交代という時期にあたる。平泉が源頼朝に滅ぼされ、三浦半島を本拠地とする葦名氏祖の佐原氏が会津を領します。しかし、恵日寺の大伽藍は従来のまま存在し、依然として大きな力を持っていた。恵日寺を開いた徳一の伝承がある寺と、大戸窯の中世陶器の流通範囲は、ほぼ重なるようです。恵日寺が、葦名氏と完全に支配権が交代するのは、鎌倉時代後半と考えられ、会津地方の板碑が13世紀末から一般化する時期と重なる。このことは、太平洋側の熊野水軍の影響が強い熊野神社の建立と合わせ、在地の勢力から武家への支配権の交代がなされ、関東との交流が活発化し、経済活動が全国規模に展開したことを示しています。
                                                       文責 石田明夫
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