石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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豊臣秀吉の会津入り
    豊臣秀吉の会津入りと太閤道
 勢至堂峠の開設
 福島県の会津から白河に通じる国道294号線は、江戸時代白河街道として藩主が参勤交代に使用した主要な街道です。その中でも須賀川市と郡山市との境にある勢至堂峠は、一番の難所でした。『勢至堂村古来よりの由緒書』によると、三代(御代)から長沼までは、大山で雪に難儀したため、けが人や死人が出たという。そこで、会津の葦名盛氏が、大沼郡三島町西方から赤月越中と忰四郎兵衛の両人を呼び寄せ、大山を切り開き、関所を作ったという。そして耶麻地方から百姓達を呼び寄せた村を整備したのです。それは、天文十四年(1545)8月のことです。または、戦国時代葦名盛氏が、永禄八年(1565)に長沼城を攻めていることからその時に、今まで整備されていなかった勢至堂峠越えの街道を整備したとも考えらます。

 秀吉が会津入りする前、伊達政宗の統治時代
 天正十七年(1589)6月5日、摺上原の戦いで会津に入った政宗。一年後、秀吉から小田原参陣の命が下ります。『伊達家文書』には、豊臣秀吉が天正十八年(1590)小田原城落城目前の7月3日、会津まで幅三間の街道整備、船渡、橋、宿泊する城々には御座所を整備するよう政宗に命じます。馬廻衆の、垣見弥五郎ら5人が秀吉から与えられます。材木は、付近の山から切り出し、城主と城番の者に食料や塩、味噌を用意するように命じています。
 しかし『伊達政宗文書』6月25日、須賀川の二階堂氏の旧臣矢田野氏が天栄村の大里城に約500人で立て籠もり抵抗し、それに激怒した正宗は、5000人から10,000人の大軍で攻めます。『伊達政宗文書』には、秀吉が大里を通過する前に、全力を上げて陥落するよう再三指示していますが、落とす事ができず、伊達勢の死人は際限ないとあります。結局、秀吉が来た8月7日まで、戦闘が続いた大里城は落城しませんでした。矢田野氏は、慶長6年(1601)佐竹氏とともに秋田へ移り、角館をもらった佐竹義重の子、葦名義広(盛重)の家臣として、二階堂氏を名乗り、今も武家屋敷があります。
 
 豊臣秀吉の会津入り
 秀吉は、小峯(白河城)に8月6日に入り、7日には長沼城の御座所に入りました。伝承によると、長沼城主であった新国貞通は、小峯城まで迎えに行き、日暮れには長沼に到着したという。城中の巽(南東)に位置する御座所となった楽永閣で城下の婦女子数百人を呼び寄せ宴会をしたという。『旧事雑考』に、秀吉に呼ばれた貞通は、親しく話しをしたが、余りにも方言がひどく言葉が通じなかったので返って秀吉の機嫌を損じたという。翌日、長沼城を出発した秀吉一行約3,000人は、先頭が勢至堂峠に指しかかっても、最後はまだ城中に居たという。長沼町上江花の伝承に、勢至堂の関守新八郎が、駕篭の前に柏葉で包んだ餅と山菜を差し出したところ、秀吉から、「これは如何な趣の物じゃ」と言われ、新八郎は「柏餅にござりまする」と答え、秀吉は喜び新八郎に柏木の姓を名乗るよう伝えたという。また、蒲生氏郷の宿に当てられた上江花では、村人が労を労い、柏や朴の葉で包んだ赤飯と白湯を出し、接待し、感激した氏郷は、帰りに金子を与えたという。一大行事を忘れないようとこの村では、毎年雷神様に集まり「まま(飯)炊き祭り(太閤祭り)」をしています。『勢至堂村古来よりの由緒書』には、柏木隼人は、白川城主結城義親の家来で、先祖は佐竹氏といい、秀吉が勢至堂峠に来た時、村人は恐れを成して奥山に逃げ隠れしたという。また、隼人は、接待のため杉葉を敷き、その上で赤飯を差し上げたとあります。
 勢至堂峠の旧街道は「太閤道」と呼ばれ、入口には殿様清水が現在もあり、一行は水を飲んだという。その日は、郡山市湖南町御代に宿泊します。
 翌日秀吉は、黒森峠の九折に悩み、会津若松市湊町に着いています。原の伝承では、背中炙峠入口にあった肝煎の坂内家で、長い曲がりくねった山道に備え、駕籠から降りて身支度をし、馬に乗り換えて峠を越えています。そして、会津若松市東山町のお秀茶屋のある天寧に下り、倫王寺で服装を再度整えたと見られます。輪王寺(現在の天寧寺)の僧が仏画を献上しようとしたましが、秀吉は出来が良かったので銀30枚を与え寺宝にするようにと返されています。そして、黒川の城下へ入り、興徳寺を宿所とします。秀吉が、黒川 (若松)に入ったのは『浅野家文書』によると九日です。興徳寺を御座所と評定所に当てています。秀吉は、会津をはじめは細川越中守忠興に与えようとしまたが、忠興は固辞し蒲生氏郷に与えられました。『会津四家合考』に氏郷は、秀吉の会津拝命を断ったが、訳あって秀吉や家康に勘当されていた佐久間久右衛門尉ら4人が許されることになったので拝領したのです。。また、一箕町金堀の雁打沢にも出かけ、網で雁を捕る様子を見ています。
 13日に出発する際『会津四家合考』には、氏郷と木村吉清の手を握り、奥州の非常に備えよと言い残したが、氏郷は本意ではなく涙したという。秀吉は、田島から山王峠を越え、那須塩原の湯本温泉に生き、高原を通り、五十里へ出て帰っていった。
 
 背炙り山と関白平
  会津若松市東山町の背あぶり山頂に「関白平」と呼ばれる標高約800mの高原があります。関白平の名は、昭和に入ってから付けられた名前で、関白秀吉に由来します。秀吉は、天下人として、新たに手に入れた領土を家臣に見せ、力を誇示するために、わざわざ一望できるこの場所を選んで通ったのです。
                                                          文責 石田明夫

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