石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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 山本八重子・新島八重と会津


新島八重は、会津時代は山本八重子、京都では、山本八重、新島八重、そして新島八重子と呼び名を変えている。


○天保14年(1843)1月14日、新島襄、群馬安中藩江戸屋敷(神田)6人兄弟の長男で誕生。
○弘化2年(1845)11月3日、山本八重子、米代二丁目の山本家で生まれ、砲術を父や兄から教わる。
  会津時代は山本八重子。武士階級の女子は子とつくのが普通であった。
    八重の父「権八」(二代つづけての養子)は、会津藩の砲術師範。母は「佐久子」。
  八重は6人兄弟(長男覚馬・妻うら子・姪峰、三女八重子、弟三郎)
  八重の兄覚馬、勝海舟らと佐久間象山の門下生となる。
○元冶元年(1864)6月、襄は箱館から出国、上海から米国に渡る。
○元治2年(1865)頃、覚馬のあとを継いだ藩校日新館教授、兵庫県出石 (いずし)藩出身の川崎尚之助と八重は結婚する。
○慶応4年(1868)1月5日、八重の弟三郎が鳥羽伏見の戦いで負傷し16日江戸で死去。
○慶応4年(1868)8月23日、八重はスペンサー銃(約4キロ)を担いで、三ノ丸南門、 廊下橋門から入城する。
○慶応4年(1868)9月17日、八重の父権八が一ノ堰で戦死。墓あり。
○慶応4年(1868)に八重離婚か(23歳)、会津美里町新鶴付近の出入りの農家へ母らとともに移り住む。
 明治3年(1870)八重らは米沢の螺役内藤新一郎宅へ出稼ぎに行く。
○明治4年(1871)八重の兄覚馬から薩摩藩兵を仲介し手紙が届き京都へ行く。八重らはキリスト教に入信。
○明治7年11月26日、襄帰国。
○明治8年(1875)4月、襄は京都を訪れ、山本覚馬と会い、学校建設を勧められる。
○明治8年(1875)11月29日、同志社英学校が開校。(校名は覚馬が名付ける)
○明治9年(1876)1月2日京初の洗礼、3日襄と八重か結婚。京初のキリスト教結婚。 
○明治15年(1882)7月27日襄・八重は安中から七日町清水屋(藤田平治)泊。 
○同年8月1日、新島襄と伊勢時雄(八重、姪峰の主人)は、桧原の大和屋に宿泊。
○同年8月2日、襄らは人力車で桧原峠を越え疲労で、綱木の清水屋与五郎宅に宿泊。
○同年8月3日、白布高湯東屋・穴戸宅に21日まで滞在。「青春時代」の手記を執筆。
○同年8月21日、米沢の宍戸屋へ2泊、甘糟三郎宅に行く。伊勢時雄と落合い会津へ戻る。
○明治19年(1886)5月21日、新島襄、猪苗代湖の山潟から舟で渡り、若松へ。
  夜、中村(現滝谷建設の地)らが訪れる。22日、襄は中村宅に招かれる。
○同年5月23日、午後、襄の説教会が若松上一之町風間宅であり、256人が参加。
○同年5月24日、襄は喜多方の安瀬敬蔵宅で説教会。100人余参加。
○同年5月25日、人力車で大峠を経て塩地平の今津屋で休憩。
  米沢銅屋町高橋六左(右)衛門宅(高六旅館)へ宿泊。
○同年5月29日、襄は米沢から福島を経て、29日仙台に到着。英学校設立を相談。
○明治23年(1890)1月23日、襄、静養先の三浦半島大磯百足屋旅館で死去。47歳 
○明治24年(1891)1月22日、若松に会津若松教会設立。大正5年に宮町へ移転。
○明治24年(1891)、八重、日本赤十字社に加盟。のち、日清・日露戦争の篤志看護婦となり勲章を授与される。
○明治25年(1892)12月28日、兄覚馬京都で死去。65歳。
○明治30年、米沢の甘糟三郎を八重は尋ね子「初」を養女とする。33年4月17日付入籍。
○昭和6年(1932)5月、大龍寺に来て、墓の整備を依頼。9月完成。
○昭和7年(1932)6月14日、京都で87歳で死去。墓は京都にあり。 


          山本八重子(新島八重)の鶴ヶ城籠城戦                
                          石 田 明 夫

 鶴ヶ城籠城戦(数え84歳時、平石弁蔵への手紙『会津戊辰戦争』大正6年刊)より

○城の籠城者数5,235人(4,956ともいう)(病人570人、奥女中64人、婦女子575人)
○兄覚馬は砲術の専門で、兄の影響で八重は、一通り砲術を習いました。
○東隣に住んでいた伊東梯次郎(後に白虎隊、戦死)は15歳で、白虎隊には入ることが出来ず残念がっていた。ゲベール銃(先込めの丸弾銃)を貸して教えました。
○8月23日の早朝、敵が侵入し母佐久子と姉のうら子は、「婦人は城中の足手まといでもあり、また空しく食糧を頂くのは不忠にもなるから、他に避難しよう」と申しますので、私は反対に「決死の覚悟で入城します」と息巻いていました。
○伝令の侍が「城中のお手伝いを願います。男が婦人の仕事をしていては戦闘能力が落ちますから」という。大小を挟み鉄砲
(スペンサー銃)と弾薬を身につけて廊下橋から入りました。
○入城後、昼は負傷者の看護をしていたが、夕方、今夜出撃と聞きましたので、私も出ようと脇差にて、髪を切り始めましたが、なかなか切れませんので、高木盛之輔の姉「とき」さんに、切ってもらう。城中婦人の断髪は、私が始めてでした。
○支度をして、大小の刀を差し、ゲベール銃を携えて、夜襲隊とともに正門から出ました。暗闇を進むと敵の姿が見えたので、「ソレッ」とばかりに斬り込みました。
○むろん歓声を上げずに、勝手次第に斬り込んだので、敵はうろたえた。
○蜂の巣のごとく、右往左往散乱し、中には歯向かう者もあり。同士討ちをしている者もあった。が、敵に増援隊が来ると、ようやく静まり猛烈に逆襲してきました。夜襲は女で私1人。
○男子の真似が好きで13歳時、米4斗俵(60`)を4回まで肩に上げ下げしました。
○8月24日の晩は、私1人にて出撃せんと暗の夜に乗じ、太鼓門に来ると、12歳の子どもら10人ばかりが、ぜひ夜討ちに私どもを同行をと頼みますので。私もこんな子供も君(殿様)のために、命を捨てる覚悟かと思い。暗に涙を催しました。「女や子供のみを出撃さしては、城中兵なき事を示すが如きもので、城中の不覚となるから、差し控えるよう」と子供らに申し含めて解散させました。
○籠城6日目、中野こう子さん入城され「なぜ娘子軍に加わりませんでしたか」と聞くと。私は「私は、鉄砲にて戦(いくさ)する考えでおりました」と答えました。
○西出丸の上から、日々、狙撃をし、大砲の手伝いもしていました。北出丸の壁を崩し砲撃。
○籠城中子供は凧(会津唐人凧)を揚げ、戦争ごっこ、鬼ごっこなど、無邪気に遊んでいました。
○総攻撃の9月14日、朝6時から夕方の6時頃まで凄まじい砲撃でした。1208か2500発。
○却下(足元に)砂塵を上げる。瓦は落ちる。石は飛ぶ。城中はまるでもうもうとした硝煙。
○有賀千賀子さんとともに、にぎりめしを盆に盛り、大書院、小書院の病室へ運搬中、大きな音が突然して足元で破裂し、砂塵もうもうとして目も口も開けず、呼吸も出来ず、暫時たたずみ、その顔は、まるで土人形の化け物そっくり。私もおかしくて抱腹絶倒をしました。千賀子さんも私の顔を指差して、笑いこけていました。おにぎりはと見ると、蟻塚をそっくりごみ一杯になりがっかりしました。
○降参の旗は、長さ3尺、幅2尺ぐらい、小切れを多数集め縫い合わせました。竹竿に結びつけ、三箇所に立てた。1本は正門前、1本は黒鉄御門、他はわかりません。(白旗は全国初)
○9月22日、城の受渡しは午後でありました。
○暮れると道路上に並べられた葵の提灯が、揚げ羽の蝶(岡山藩)の提灯に変っていました。 
 「明日の夜は 何国(いづこ)の誰か ながむらん なれし御城に 残す月かけ゛」
※歌を詠んだのは、三の丸東側(現プール)にあった雑物蔵の壁に笄(こうがい)で彫ります。
○私は戦死した弟の「山本三郎」と称し、男装し検査を受け猪苗代に向い出発しました。                       
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娘子軍とは