石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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  柏木城と葦名(あしな)氏の城館


柏木(かしわぎ)城
福島県耶麻郡北塩原村

    戦国時代、東北最大の石垣の城
柏木城跡 天正十二年(一五八四)築城 
 葦名氏が築いた城館の中で、その後改修されずに破却された城跡は、北塩原村にある「柏木城跡」が代表的なものです。天正12年(1584)に築かれた城で、向羽黒山城跡と同規模の面積があります。 とくに、当時の最新技術である石積石垣が多様された典型的な守りの山城です。また、竪堀、竪土塁、木橋、葦名氏が多用した埋門、櫓台、武田氏の伝統である丸馬出しなどが残っています。大手口にあった石積石垣の門は、完全に破却され、石が散乱していますが、搦手口や東端の虎口にある石積石垣の門跡は当時のまま残っています。天正17年(1589)6月5日、伊達政宗が摺上原で葦名氏に勝利した翌日、ここを守備していた三瓶大蔵、穴澤俊次らは、城に火を付けて退却しています。伊達氏家臣の原田氏がこの城に入った時には、空であったといわれています。天正13年(1585)には、伊達政宗が裏磐梯から攻めて来ます。大塩の萱峠まで政宗は来ましたが、霧と雨にも見舞われ、大軍を移動できなかった。また、先行部隊の報告で、柏木城の巨大さと石垣を見て、政宗は引き返したとも言われています。

 城跡は、大塩温泉南側の丘陵上にある山林と畑部分に位置しています。城跡は破却された当時のままの状態で残っています。大塩地区と、城跡の中心部とは、約110m高い位置にありますが、南西に位置するの大久保地区とは、約30mの差しかありません。南側の塩川方面には逃げやすくなっています。このことは、守りやすく逃げやすい地形となっていることを示しています。 柏木城跡の大手口は、大塩郵便局の南側にあり、一段低くなった部分に埋門として位置しています。さらに登ると、石積石垣の枡形虎口が位置していますが、虎口は破壊されています。城跡の大きさは、東西約1.1km、南北約500mと広大で、面積は約50haを有している。この大きさは、若松城跡の約2倍、神指城跡や会津本郷町の向羽黒山城跡に匹敵する大規模なものである。 城跡は、西に中心の主郭(しゅかく)が存在し、東には、長大な石垣や、当時のままに残る石積石垣の虎口(こぐち)、自然の尾根を利用した外郭(がいかく)と、様々な遺構が東西方向に長く構えられています。 中心の主郭部分の外側は、主郭を取巻くように、いくつかの曲輪(くるわ)群で構成されています。全体的に、北に面して石積石垣、土塁、虎口が二重三重に構えた難攻不落の防御線となっています。しかし、南側は、水堀で区別されただけとなっています。このことは、北に防備が強いことから、伊達氏の侵攻を防ぐために葦名氏が築いた城郭であることが分かります。 中心の主郭部分は、いくつかの曲輪に分けられます。 曲輪1は、城跡の中心部で、江戸時代以降は本丸と呼ばれるようになります。曲輪1は、東と南、西が高さ1mから3mの土塁、石で堅めた土塁、石積石垣で堅固に囲まれています。北側に土塁が無いのは、下から攻めてくる敵を出来るだけ、上から見やすくするためのものです。内側には、石塁で囲まれた塀が建てられていた区画や門の跡があります。礎石は確認できませんが、多くの建物が存在したと考えられます。東側土塁上には、一間四方の櫓台(やぐらだ


い)跡があります。北東部分には、曲輪1の大手口があります。一部は石積された内桝形(うちますがた)の虎口となっています。また、横矢掛(よこやがかり)も見られます。大手口は、北に面し、三方が高くなり、門が建物より低くなる埋門の形式となっています。敵が侵入したら、門を閉じ大石で塞ぎ、開かなくするようだった。事実、大石が大手口内側に残っています。なお、土塁上には、焼けた痕跡が随所に見られることから、この城を退却した葦名氏家臣が、火を放ちこの城を焼いてしまったと考えられます。この頃の城には、天守閣は存在しませんが、高い物見櫓は存在したと考えられます。 曲輪1の西には、曲輪二がある。幅10mの空堀で区画され、曲輪間は、一部土橋でつながっていました。その外側は、西側に直線的な高さ2mの土塁で区画されています。また、曲輪1と曲輪2とは、木橋で渡れるようにしてあった。

土橋付近は、石積石垣があることから搦手口となっていた可能性があります。 曲輪2の西には、曲輪3があり、南側に内桝形の石積石垣の虎口が破壊されないで残っています。また、その曲輪の外側に続く南側には、石が貼られていたか、石積石垣になっていたようです。 曲輪1の南には、土塁に囲まれた帯曲輪があり、焔硝蔵か蔵を囲んだ石積もあります。そして、その東には曲輪4がある。そこには、帯曲輪からは木橋が掛けられ、丸馬出しがあり、内枡形の石積石垣の虎口が南側にあります。また、この曲輪は土塁で囲まれ、坂道を上がると一段高い平場があり、物見が置かれていたようです。 主郭から東に500m離れた曲輪には、石積石垣の桝形が当時のままに崩れないで残っています。その東には、幅10mの堀跡があり、最も外側には、自然の地形を利用した外構の土塁が取囲んでいます。 東北地方で、蒲生氏郷以前に築かれた城では、最も石垣を使用した大規模な城跡です。


用 語 解 説
輪(くるわ)          平坦にした空間。平場とも呼ばれる。虎口(こぐち)          城の入口。縁起を担ぎ、虎の字を充てて呼んでいる。石積石垣(いしづみいしがき)本格的に積む以前の積み方。裏込め石は存在しない。内桝形(うちますがた)     内側に入った入口。外桝形は、外に出た入口。横矢掛(よこやがかり)     かぎ形に曲がり、脇から敵を撃ちやすくしたもの。搦手(からめて)        城の裏口。正面に来た敵を絡めて討ち取るための出口。




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天正12年(1584)の石積石垣
南側にある堀跡(水田部分)
幅は20mから50mあります。




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  上が北、主郭部分 石田明夫実測

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