石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 

阿賀川の由来と会津五街道

 阿賀(あが)川と揚(あが)川の由来と・日橋川の由来

『新編会津風土記』に、日橋川は、江戸時代前半までは、猪苗代湖から出る部分を「戸ノ口川」、磐梯町大寺付近を「新(日)橋川」、会津若松市河東町付近を「堂島川」、鶴沼川(現阿賀川)と合流すると「大川」、只見川と合流すると「揚(あがの)川」と呼んでいました。大川は、栃木県境の山王峠から田島までを「荒海川」、田島から下郷の鶴沼川までを「大川」、鶴沼川との合流から下流を「鶴沼川」と呼んでいました。古代より、大川は「大川」と若松の人は呼び、「大川渡」の木簡が出土しています。
『会津鑑』揚川(阿賀川)は、尾瀬沼から只見までを「揚川」、只見から片門までを「只見川」、片門より下流を「揚川」と呼んでいました。また、河沼郡柳津町の魚淵の由来にも揚川と『会津旧事雑考』書かれています。なお、只見川は、柳津の虚空様の菊光堂前の只見川にには、大きな畳岩があり、畳岩の川(たたみいわのかわ)が只見(ただみ)と変化したものです。
 揚川とは、奥会津で大雨が降り、急に水かさが上がるという意味があります。弘法大師が三度ただ見に行ったというのは伝説で、弘法大師は会津に来ていません。本当の揚川(阿賀川)は只見川なのです。

 会津五街道と保科正之の領内整備 
寛永20年(1643)に徳川秀忠の子保科正之が23万石で会津藩主となります。幕府へ領内の若松城下に通じる街道の届けをし、慶安2年(1649)11月「会津城下より隣国居城迄の道法(みちのり)」として定め、大町四つ角の「札之辻」を基点としました。寛文7年(1667)には、一里塚、松並木、宿場と街道を整備しています。大町四つ角には、基準の石「道路元標」が残されています。


『会津藩家世実紀』慶安2年の届けによると「本道五筋」(五街道)とは、
「若松より白川領江花村への道」(白河街道)
「南山通り宇都宮領藤原村(日光市藤原)への道」(南山通りと呼んでいたが後に下野街道・会津西街道とも呼ばれた)
「小川庄赤谷通り越後新発田領山之内村(新発田市山内)への道」(越後街道)
「津川より越後村上草水村(新潟市秋葉区草水町)へ出る川舟路」(阿賀川水運)
「耶麻郡桧原通り米沢領綱木村(米沢市綱木)への道」(米沢街道)
「猪苗代通り二本松領中山村(郡山市熱海町中山)への道」(二本松街道)
以上、陸路が5筋、水路1筋を指します。上・下や裏街道もあり、脇街道となる小道は25筋あると届けています。
 街道の呼び名は、若松からの行先名で呼んでいました。その他、街道には、只見、伊南、桧枝岐から群馬県の沼田へ行く沼田街道、福島へ土湯峠を通る福島街道もありました。
                                                                 文責 石田明夫