考古学から見た会津の歴史   
              会津連携と話題、ゆかりの地  

 会津の活性化には観光は欠かせないもので、会津若松城下町観光と会津地域中核となる地域との連携が必須です。ここでは、城下町観光のポイントと、会津地方との連携を提案します。  
 まずは、今年の話題となべき「ゆかり」を紹介します。

会津の概要➡ 会津の由来と概要  


 2017年、ゆかりとなる話題  
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   2017年、起上り小法師誕生450年目  2017年、赤べこ誕生400年目  2017年、瓜生岩子の没後120年目
    由来は、織田信長が、当時斎藤道三の孫、龍興がいた「稲葉山城」町は「井之口」といい、7回攻めたが、手中に収めることができず、永禄10年(1567)9月、8回目にようやく攻め落とすことができた。それが「七転び八起」の由来となり、その逸話を広めるため「小法師」をつくり広めたのが蒲生氏郷なのである。   由来は、慶長16年(1611)に、柳津付近を震源地として起きた「慶長会津大地震」によって、若松城の天守閣が傾き、柳津の虚空蔵菩薩堂が倒壊。蒲生二代目夫人の冬姫が、徳川家に頼み1617年に堂を再建した。その時、協力したのが「赤べこ」である。赤い牛は、実在していたのである。  明治29年日本で最初に女性で藍綬褒章を受章し、明治34年浅草寺西側に日本で最初に女性の銅像となった慈善家。戦災孤児の養育や女性の地位向上に努力した苦労人。明治時代を代表する一般庶民の女性。ドラマや映画にならないのが不思議なくらいである。 
   「我、起上る最中也」・なぜ赤いのか  赤い牛の真相  瓜生岩子の功績

   柳津町の見どころ 東山温泉 南会津町の戦国時代  柏木城と葦名(あしな)氏   河東町の歴史


   
会津ゆかりの地・領主編
葦名氏 「蘆名」と書くこともあり、それは文献にあるためですが、菩提寺と子孫は「葦名」と表記しています。
         「神奈川県三浦半島の葦名氏関連史跡。墓と菩提寺」
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初代佐原義連墓 三代葦名光盛板碑   六代墓建長寺  葦名氏大倉屋敷跡 葦名氏亀ケ谷屋敷跡 三浦一族のヤグラ
横須賀市の満願寺にある。喜多方市熱塩加納には供養碑がある。  横須賀市にある板碑。ここは葦名氏の屋敷跡と思われる。  建長寺にあったとされるが、現在は不明。  鶴岡八幡宮脇に葦名氏の屋敷があった。  葦名氏は亀ケ谷にも屋敷があった。 三浦一族滅亡の地

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衣笠城跡  佐原城跡  芦(葦)名城跡  和田城跡  荒井城跡 芦名の浄楽寺
三浦一族の本拠の山城跡、横須賀市 初代佐原義連の城跡、横須賀市 三代葦名光盛の城跡、横須賀市  和田一族の城跡、三浦市和田  荒井一族の城跡、三浦市  横須賀市芦名、三代葦名光盛の寺

 京都の葦名氏・長沼氏・蒲生氏郷屋敷跡
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 七代葦名直盛墓跡  空也堂  長沼氏屋敷跡  天寧寺  前期氏郷屋敷跡  後期氏郷屋敷跡
七代直盛墓は京都の妙満寺にあった。その跡には空也堂が建つ。 京都の葦名屋敷は空也堂の地にあった。近くは本能寺跡。   南会津田島を本拠地としていた長沼氏の京都屋敷跡。  伊達政宗に会津を追われた天寧寺。本尊は直江兼続寄進。 蒲生氏郷の屋敷跡。向かいには千利休がいた。  蒲生氏郷はここで亡くなった。


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