石田明夫の考古学から見た「会津の歴史
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                白虎隊がいた戸ノ口原の陣地跡
           戊辰・会津戦争

    会津では、東軍・西軍と呼びます。全国的には東軍と新政府軍と呼んでいます。
          会津藩の軍制  文久三年(1863)制定(フランス式) 会津藩の正規兵の数  約3500人 
隊名
よみがな 方位
年齢
士中 寄合 足軽 1隊の人数
合  計
白虎隊 びゃっこたい 西 16から17歳 2隊 2隊 2隊 約50人
約300人
朱雀隊 すざくたい 18から35歳 4隊 4隊 4隊 約100人
約1200人
青龍隊 せいりゅうたい 36から49歳 3隊 2隊 4隊 約100人
約900人
玄武隊 げんぶたい 50歳以上 1隊 1隊 2隊 約100人
約400人
 合計
約2800人
砲兵隊 約300人
築城兵 約200人
指揮官 約200人
合計
約700人
合計約3,500人

    その他戊辰戦争で会津藩が集めた兵隊
奇 勝 隊
正奇隊 半士、半農の地方御家人
修験隊 山伏、修験者
力士隊 力士
僧侶隊 僧侶

約3,200人
農 町 兵
新錬隊 内250人義勇兵、士分
敢死隊 郷頭、肝煎、代官、支配役
約2,700人
          辰戦争時の会津藩の総兵力約9,400人(一説に15,000人もあり)   

         会津藩が集めた身分別の兵隊

正規兵
客員兵
農民兵
町民兵
その他
合 計
約3500人 約1800人 約5,000人 約2,300人 約2,000人 9,400人

          なお仙台藩の兵力は、 約14,300人
         西軍(新政府軍)の兵力は、約75,000人でした。 兵力や財力にはくらべものにならない大きな差がありました。

tonokuci
sasayama
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 戸ノ口原古戦場
西軍の塹壕(ざんごう)
戸ノ口原にある会津藩塹壕
 小田山

 会津藩の遺構は下を▼クリック
戊辰・会津戦争の戦場跡  会津新選組 会津若松市内に残る戊辰戦争の遺構  戸ノ口原の会津藩陣地跡図
戊辰戦争の遺構は、日本で会津
周辺が最も良く残っています。
母成峠、戸ノ口はの遺構の発見
は会津古城研究会です。
 新選組は、約140名いて
福島県内を広く移動。
特にも白河、母成峠、喜多
方が激戦でした。
会津若松市は、市街地で1か月に及ぶ激戦が
ありました
戸ノ口原には、会津藩のざんごう跡が
8カ所残り、西軍ざんごう跡もあります。
会津古城研究会では、遺構の草刈りを
実施し、保存に努めています。

 
慶応4年(1868)8月21日、現在の10月6日ころ
 西(新政府)軍は2千から3千人で母成峠から攻めてきます。会津藩では、旧幕府の大鳥圭介を主力に、新選組の残党や二本松藩、仙台藩、会津藩の農民で組織された約700
人が守備に当たっていました。現在でもも土塁や塹壕が残っています。結果は知ってのとおりで、西軍は迂回作戦もし、多様な戦略と圧倒的な武力で簡単にこの峠を突破し
ます。死者は会津藩軍が6人、西軍は0人でした。
母成峠防塁跡。3次陣地跡
長さ348m・幅115mの規模がある。高さ4m・幅7mの防塁と空掘、深さ1m幅2mの塹壕。
母成峠にある会津藩軍が築いたと思われる石積石垣の1次陣地跡
新選組斎藤一らが戦った神指城 神 指 城
bonari bona nyorai

 8月22日、新政府軍は猪苗代まで侵攻します。猪苗代城代の高橋権太夫(500石、会津若松市役所、通りを挟んだ東角に屋敷があった)は、
  自ら猪苗代城と土津神社に火を放って
退却します。その日、会津藩では午後4時頃には、急な知らせを受けた白虎隊士中二番隊37名の一部が、十六橋(16連の石橋)に到着します。間もなく、西軍の一部も十六橋に到着したことから、白虎隊は、強清水まで退却します。そして、西軍は、笹山原(県立会津レクリェーション公園内)に塹壕(ざんごう)を掘ります。現在長さ53m、深さ1mでその塹壕が残っています。この塹壕は、明治時代になってからも、陸軍29連隊の練習場の指揮所に使用されています。現在、会津若松市から河東町にまたがる戸ノ口原(現大野原と笹山原)には、会津藩と西軍が掘った塹壕が、数カ所残っています。同じような塹壕は、母成峠や勢至堂峠、蝉峠、束松峠、馬入峠、諏訪峠、横川など峠筋に存在しています。多くは、付近の農民を徴用し築かせたものです。なかには、慶長五年(1600)上杉景勝が徳川家康の会津侵攻に備えて築いた防塁を戊辰戦争前に改修した馬入峠、横川、勢至堂峠、諏訪峠、安藤峠などもあります。戊辰戦争時の土塁は、景勝時代より規模がかなり小さく、空堀はなく、土塁の前に犬走りが伴うようです。会津藩では、佐川官兵衛の指揮のもと、臨時に集められた諸隊と白虎隊によって、強清水東の小山に、3段構えで塹壕を掘ります。西側の1列目は、北から、土塁が伴い深さ40aで2段に構えた長さ70mの1号塹壕。その南に、長さ21mの2号塹壕。最も南に、深さ50aで2段に構えた長さ17mの3号塹壕があります。2列目は、土塁の高さが40aで3段に構えた4号塹壕。3列目は、長さ18mの5号塹壕。最も東に、長さ6mで深さ1mの6号と7号塹壕があります。なお、道の南側、赤地谷地展望地にも塹壕の痕跡があるようです。塹壕その中で、6号と7号は白虎隊が守った塹壕で、4人しか入れない小さなものです。他の峠では、1人用の塹壕もたくさんあります。両軍とも、雨の中、22日の1日で築いたものです。
 戸ノ口原で戦闘があった23日 この日は大雨でした。西軍は、板垣退助の指揮のもと、土佐を先頭に、大垣、大村、長州、佐土原、薩摩の順に進み、午前5時には戦闘を開始します。最前列にいた会津藩の農兵はこの時、全滅しています。新政府軍は、午前8時に一箕町の堂ケ作山古墳に到着。午前9時過ぎには、若松城下の外堀大手口に位置する甲賀町口門(16ある若松城外郭の門の一つ。大きな鏡石があることや「蒲生源左衛門尉」の刻字から、慶長13年(1508)頃に築かれたものです。大手口に通じる最も重要な門でしたが、幕末には東側の石垣はすでに取り払われていました。)に到達し、西軍がこの門を突破して、西出丸の入口まで到達しています。午前10時頃には、若松城大手門前まで進攻しています。白虎隊は、赤井谷地の西端を抜け、赤井集落に出て、大杉集落、不動川を下り、飯盛山に達するのです。なお、笹山集落の西にも、西郷頼母の指揮のもと、郷頭や肝入・代官・支配役で組織した敢死隊約40人と、農民や僧侶・力士・修験者で組織した奇勝隊約80人が掘った塹壕が残っています。頼母以下の諸隊は、戦わずして背炙りから城下に戻っています。白虎隊は、滝沢の日橋堰から洞門をくぐり、飯盛山にでます。そして、城下に火の手が上がったのを見て、城も燃え家族も亡くなったと信じて、自刃(じじん)しました。その時、町は朝食後であり、まだ火を使っていた屋敷もあり、会津藩と新政府軍の双方で外堀内の武家屋敷に火をつけました。それは、建物に隠れていると戦闘に邪魔だったからです。とくに、9月10日、会津藩で火を付けたのが、最大の火災でした。戊辰戦争での戦死者合計は、会津藩で2,977人です。(天正17年(1589)の伊達政宗と葦名が戦った摺上原では、1日で約2500人が亡くなっています)城下町は3分の2が焼失しています。                    
戸ノ口原で使用された銃   
会津藩軍が使用した銃
西軍が使用した銃
    ヤーゲル   丸弾の火縄銃 ミニエー たまご形の弾薬  スペンサー 7連発 40挺あったという  スナイドル  長州兵が多数持っていた

tonokuchi
この塹壕は、1日で掘ったことものです。1日で塹壕は掘れるものなのです。ここでは、鉄砲に備え、横長の塹壕を何本も掘っています。ざんごう(横堀)の前にはわずかに高くなる土塁があり、人が座るとちょうど良い大きさとなっています。他の峠では、一人用の塹壕が多数存在します。戸ノ口原の南、笹山にも同様の塹壕が残っています。 会津若松市にある西軍の塹壕は、明治時代も使用していたことからもっと良く残っています。 戦国時代の塹壕は、土塁の前に横堀がありますが、戊辰戦争では堀の前に土塁があります。また、大きさも全く異なります
  小田山西軍砲陣跡    戊辰戦争の詳しい資料

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