考古学から見た会津の歴史 本文へジャンプ
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幻の白河決戦
 北の関ヶ原 〜幻の白河決戦〜
  日本考古学協会員・会津古城研究会長 石田 明夫 

 慶長5年(1600)夏、福島県南部の白河を決戦場に、家康を総大将とする徳川軍約6万と、上杉景勝・直江兼続と同盟関係にあった常陸の佐竹義宣との連合軍16万2千人が対峙し、関ヶ原合戦と同じような大合戦が繰り広げられようとしていた。その戦いは、家康の情報収集による成果と、覇権を賭けた野望によって、西へ引き返したことから戦いは「幻の白河決戦」となった。

  拠点となった白河城、1600年の時は櫓は北西にあり。  石阿弥陀の防塁跡。370メートル現存

直江兼続の白河決戦とは

 白河正面の防塁は、前面を湿田の深田とした長大な推定3千〜5千m、幅7mで空堀が伴う二重土塁。土塁の高さは約4mになるよう基本どおりに造くる。警備は、工事に従事している人夫が交替であたるもので、人数は多いが精鋭の主力ではない農民中心の部隊で構成し、敵の進攻を一時でも食い止めるものとする。『白河風土記』や「白河口戦闘配備之図」こは、阿武隈川や黒川から酒樽を2千個から3千個横に並べ水道管を造って西原から皮籠原へ流している。皮籠原の防塁が突破されれば、後方の川を伴う湿田の深田で進攻を阻止し、北側の丘陵から攻撃する。北側の標高436mの小丸山丘陵は南側の水田より約50m高く皮(革)籠原を見渡せることから、見張り用の櫓を設け、丘陵には柵を設置し進行を阻止する。敵の足を食い止めたら、兼続の主力部隊が、西側の那須山や甲子高原方面から皮籠原を目指して下り、側面攻撃をする。または鶴ヶ渕防塁から那須塩原へ進み背後から家康軍を攻める。正面の皮籠原の防塁が危なくなれば、景勝本体の旗本を主とする精鋭部隊を白河城の東側から回り込み、革(皮)籠原の南東、関山東側を通り回り込んで東側面から攻撃する。さらに東の南郷地区からは、同盟を組んでいる佐竹義宣軍4万が棚倉町の赤館や寺山城から革(皮)籠原の南、伊王野城や芦野城付近から回り込む。また別動隊が、福島県塙町の羽黒山城と台宿や矢祭町の東館から、黒羽城の南に進攻し、拠点の黒羽城を占拠する二方向からの進攻となる。

白河の革(皮)籠原が破られたら決戦は勢至堂峠と長沼城

  革(皮)籠原が破られたら、白河城で城下を巻き込んだ戦闘となるが、白河城の南側の丘陵や結城氏の居た白川城に立て籠もられると白河城では、持ちこたえられないことから、一時的な進攻を食い止めることは出来ても、長期戦とはならない。兼続としては白河城下では激しい戦闘はしないで、北の須賀川市にある長沼城と勢至堂峠入口の道谷坂陣、北西の鳳坂峠での峠入口での戦いを想定している。道谷坂の景勝本陣を拠点とし、東の長沼城と連携し、勢至堂峠入り口で家康方を食い止め、西の凰坂峠から新津氏2万人と、南会津町田島の鴫山城や九々布城から兼続と弟の大国実頼ら3万人が現在の国道289号線と重なる甲子方面か国道118号線と重なる鳳坂峠から回り込む。東からは佐竹氏が棚倉から矢吹を経て進攻し、勢至堂峠・長沼の敵を取囲み殲滅するものである。

「直江兼続とふくしま」のページではさらに詳しく掲載

後方の精鋭部隊・8千人の景勝本陣の道谷坂陣
堂谷坂陣跡予想図
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国道294号勢至堂峠南側入口にある1600年構築の陣跡
 「幻の白河決戦」の時に上杉景勝が本陣にしていた場所。土塁、空掘、虎口が残る。『白河口戦闘配備之図』によると景勝公陣所8千人と書かれていることから、景勝直轄精鋭部隊の旗本衆が守備していたとみられる。白河や須賀川方面から会津の猪苗代湖南に通じる江戸時代からの幹線道路で、会津街道・白河街道と呼ばれていた。現在は、国道294号線がほぼ同じルートとなっている。頂上の勢至堂峠は、標高約740m、現在ではトンネルとなっている。
 道谷坂陣は、国道294号線を白河方面から須賀川市長沼の平坦地から峠に入って約500m進むと江花大橋があり、それを過ぎた標高約420mの地点に位置している。国道の拡幅工事で、遺構が東西に分断され、一部消滅したものの街道を取り込むようにして、土塁や空堀、竪堀、平場が大規模に残る陣跡である。家康の会津進攻では、白河口から白河城、長沼城そして勢至堂峠を進攻すると想定した上杉氏にとっては、防御の拠点として重要な施設である。
 大きさは、南北約320m、約180mあり、国道の西が中心部で、数段の平場と土塁で囲まれた曲輪がある。虎口は明確な枡形ではないが、土塁は高いものと低いものがあり、横矢掛かり確認できる。中心部は、直線を基本とした土塁が築かれている。上幅が約1m、高さは2mから3m、基底部の幅が約7mある。陣の南側部分は、街道に直行するように土塁が50m築かれている。上幅が約50cmと人が歩くには狭いことから柵が存在したと考えられ、南側に虎口が伴っている。国道と重なる部分と北東側には、土塁に囲まれた一段高い空間があり、そこに景勝が居たと推定される。その上の尾根との間には堀切があり、尾根には半月状に削平した平場が5段確認できる。さらに上の尾根には、長さ100m以上、幅約1mの人工的な削平痕があり、人がすれ違いのできる空間があることから武者走りと考えられ、尾根の自然地形を利用した防柵跡が設けられたとみられる。
 陣跡の北約150mには、東から西に傾斜する尾根を三段にした平場がある。長さ約140m、幅は約5mから18mあり江花川からの高さは、約5mから30mある。川に近い先端部は川原石で石積されている。この平場は、兵士の小屋が建てられていたと推定される。なお江花川対岸は、急傾斜の崖で通行は不可能となっている。『会津要害録』には「道谷坂ノ隘口 谷深ク道迫リタル要地ナレハ 慶長五年ノ秋 上杉景勝 矛盾ノ頃モ坂ノ隘口ニ土手ヲ築キ 横矢ヲ取テ待掛タリ其塁今ニ存ス要地之」とあり、景勝が、慶長5年に道谷坂に土塁や横矢を築いたことを示し、6月10日に神指城の築城を中断してまで、白河方面の防備に力を注いだ7月から8月の時期と一致している。国道294号線頂上の至勢堂峠は、現在トンネルとなっているが、旧道部分にも防柵跡がある。尾根部分を半月状に削平した平場数段と土塁で構成されている。この峠頂上部分は、戊辰戦争で改修され、防御陣地としてもしようされている。この峠は、白河から会津に入る主要な街道であることから、道谷坂陣跡とともに峠頂上にも陣地を構築して防御していた。
白河城後方の拠点の長沼城
 白河城の北、約18kmに位置し、会津入口の要衝の城。この城は、栃木県芳賀郡二宮町の長沼庄出身の長沼氏で小山氏の一族。15世紀前半までこの地にいたが、応永30年(1423)までには、惣領の義秀は南会津の田島へ移っている。須賀川二階堂の支城となり、16世紀中頃には、会津の葦名氏の配下となっている。城の西5kmには、勢至堂峠入口で街道を守備していた景勝本陣の道谷坂陣が位置している。天正18年(1590)『旧事雑考』や伝承によると、8月7日、奥羽仕置きのため会津へ向かう途中、白河から長沼に移った豊臣秀吉は、城代の新国貞通の歓迎を受け、本丸に建てられた楽永閣で、付近の婦女子200人を集め、大宴会をしたという。貞通は、余りの方言によって、その日、領地を没収されているその建物は、破城とともに城下の本念寺へ移されたというが今は残っていない。
 長沼城は、周辺の城下より39m高い、標高368mに主郭があり、総構えの土塁と堀に囲まれ、とくに南東側は、直線を基本とする織豊的な造りとなる二重の堀で、一部は三重の堀となっている。また、南に流れる江花川を人工的により南側に変更し、城下の拡大と防御機能の強化をしている。防御機能が南に面して三重に強化されていることからすると、これらの改修は、長沼城が白河後方の拠点の城として重要な位置にあった上杉時代に実施されたものと推定される。本丸北西は、石垣の上に三重櫓が建てられていた。
 上杉時代は、『紹襲録』島津忠直に7千石が与えられている。慶長4年(1599)4月7日、『覚上公御書』に兼続は、長沼城主の島津義忠が亡くなったことからその跡に、福島市宮代の宮代城主、岩井昌能の二男、勢三(後に忠直)に与え、義忠の息女を娶り島津家を継いでいる。また、長沼城の北約15km、猪苗代湖南の若松との中間に位置する赤津城は、『覚上公御書』によると慶長5年3月20日に再興と修理を吉田源左衛門と田川与惣右衛門が景勝から命じられている。慶長5年(1600)8月6日『直江兼続書状』によると、兼続は長沼から、会津若松にいた南会津伊南久川城主の清野二郎宛てに、会津へ帰るかも知れないここと三成から使者(三成との最終打合せ)が来ていることを知らせている。慶長5年には、兼続がここを拠点として、防御陣地の構築と、家康進攻時の対策を指示していたことがわかる。
      図・ 文責・写真 石田明夫
 
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