石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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会津若松市内に残る戊辰戦争の痕跡

戊辰戦争について

 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争が開始された。4月29日土方歳三ら新選組一行が、会津藩士の秋月登之助の手引きで七日町の清水屋旅館に入る。5月1日、白河城が陥落。8月21日新政府軍は2千から3千人で母成峠に進攻し、新選組や旧幕府の大鳥圭介、会津藩など約700人が守備していたが、火力の差で敗北。8月22日には猪苗代城代高橋権太夫が城と土津神社に火を放ち退却する。8月22日、白虎隊が出陣、戸ノ口原にざんごうを掘り、待ち構えていた。23日早朝から合戦。またたく間に敗北。同日新政府軍は、若松城下へ進攻している。9月22日、会津藩が降伏した。会津藩の戦死者は2,977人。城下の2/3が焼失した。若松城には、5235人が籠城していた。会津藩では丸弾のヤーゲル銃が主力であったが、新政府軍は卵形のミニエーやスナイドルが主力であった。会津藩の勢力は正規兵が3500人、農兵などを合わせると約9600人、新政府軍は約75000人であった。

長命寺土塀 会津若松市日新町5-51 長命寺所有 市指定史跡 
 慶長10年(1605)、真宗大谷派本願寺第12生の教如上人が、蒲生秀行に願い出て現在地の甲賀町に掛所の別院として一寺を建立した。寛文中に現在地に移転。後に、長命寺と命名され、本願寺の末寺となる。土塀の5本線は格式の高さを示している。 慶応4年(明治元年)8月25日、戊辰戦争で郭内に居た会津藩軍と市街地北部に陣取っていた新政府軍と郊外から若松城下に進入を試みていた会津藩軍とこの場所で衝突し、激戦となった。土塀に残る穴は、当時砲弾が当たったことを示すものである。境内には、会津藩士145名の墓がある。

阿弥陀寺   会津若松市七日町4-20 
慶長8年(1603)、浄土宗知恩院の末寺、良燃和尚が蒲生秀行からこの地を賜り、寺院を建立した。二度の火災で残らず焼失した。若松城取壊しの際に、御三階の払い下げてもらい長く仮本堂としていた。境内には「殉難之碑」という萱野権兵衛の碑もある。

@御三階(櫓)未指定
 若松城本丸東側土塁下に、3段ほど石垣で組まれた方形の高まりがあり、その上に建てられていたものを明治3年5月に仮本堂として移した。外側が三階だが内部は四階となり、三階部分は天井が低く人が立つことは出来ない。一階から二階へ通じる階段は、跳ね上げ式となり、四階へは上ることが出来ないようになっている。また、板敷き部分は、うぐいす張りとなり、歩くと音が出るようになっている。正面にある入口部分は、若松城本丸にあった大書院唐破風の玄関部分を付け足したものである。屋根の部分は、若松城内にあったとき御三階は板葺きで、玄関部分は瓦葺きであったが、現在では赤瓦葺きとなっている。

A会津藩戦死者墓
 戊辰戦争で戦死した会津藩士を市内で最も多くの1,281体を埋葬している。

B大仏台座跡
 境内の北東には、阿弥陀如来を安置していた台座の跡がある。第二次世界大戦で、国へ供出されたため、現在は残っていない。

C藤田五郎(斉藤一)墓 
 新選組隊士、斉藤一は、一刀流使い手として知られ、京都の池田屋事件にも加わっている。近藤勇亡き後、隊士を引き連れ、4月29日に清水屋旅館へ入っている。閏4月に白河城下で戦った後、5月1日には白河城が陥落し、6月8日には福良へ入っている。若松城下では、七日町の清水屋旅館(木造三階建)に逗留し、負傷者が居たことから東山温泉の不動の湯で、湯治にあたっていた。そのころは、夫人の旧姓山口をとり山口二郎と名乗っている。戊辰戦争の時には、8月21日母成峠で戦い、9月4日若松城下へ入ろうと神指町如来堂に20数名が集結していた所を新政府軍に襲われ、多くが戦士している。土方歳三が仙台そして函館へ向かうなか、会津に残り、会津藩士の娘時尾と結婚し、容保より藤田の姓を貰い五郎と名乗る。(藤田のいわれは不明だが、清水屋旅館は、藤田姓であり、関係あるか)警視庁などに勤務し、72歳で亡くなり、本人の希望により、阿弥陀寺に墓が建てられた。
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清水屋旅館跡
近藤勇墓
長命寺土塀
会津藩戦死者墓
萱野権兵衛墓

清水屋旅館跡 会津若松市七日町1-38 現大東銀行会津支店
 大東銀行にあった老舗の旅館、七日町では最も大きな旅館で、幕末には吉田松陰も宿泊している。この旅館を有名にしたのは、新選組が逗留していたことである。明治から昭和の前半にかけて、会津で商いをする拠点として七日町には多くの旅館が集中していた。第二次世界大戦後、この旅館は没落し、痕跡は無くなっている。

西軍墓地 会津若松市大町二丁目1-45 
 時宗の東明寺があった場所に現在東明幼稚園があり、融通寺との間、旧東明寺境内に西軍墓地がある。新政府軍は、融通寺を本拠としていることからこの場所に集められ、明治2年4月に151体が埋葬された。ただし、会津藩士は放置され、死体に触れることさえ出来なかった。

甲賀町口門跡 会津若松市栄町
 戊辰戦争の激戦地。新政府軍は、若松城下に進入すると真っ先にこの場所に進んだ。戊辰戦争時の8月23日、石垣の南側部分は無かったことから、容易にこの門は突破されている。なお、この門の南側部分には、蒲生忠郷時代に築かれたもので刻字に町野長門守とあり、ここを修築している。また、天寧の字もあることから、東山の天寧(後の慶山)石切場から運ばれている。

天寧寺 会津若松市東山町大字石山字天寧208
 曹洞宗の寺院。応永28年(1421)葦名盛信が、傑堂能勝を呼び寄せ、建立した。天正17年(1589)6月に伊達政宗が会津に入ると、寺名を伊達家の菩提寺である輪王寺へ変更し、天寧寺は葦名義広とともに常陸へ移り、最後には佐竹氏とともに秋田県角館に移り、現在も存在し、寺の裏には、葦名氏廟所がある。また、天正18年(1590)には、豊臣秀吉が黒川(若松)興徳寺に入り、奥羽仕置を命じた時には、この寺へも立寄っている。現在もある寒山拾得図などを献上しようとしたが、出来が良かったことから、秀吉は感動し、反対に銀30枚を下賜している。戊辰戦争で、堂舎が炎上している。境内には、家老田中家、萱野家や近藤勇の墓がある。近年、本堂が再建されている。

@萱野家墓・郡長正墓

 天寧寺の東側山中に墓地がある。萱野権兵衛(かやのごんべい)は、1500石の家老で、会津藩を代表し戊辰戦争の時に責任者として明治元年(1868)9月22日午前10時頃、本二之丁で松平容保とともに降伏文書に著名している。そのため、戦争責任を取って明治2年5月18日切腹している。墓は、一族墓地の南東側に位置する。また、長男の郡長政(こおりながまさ)(権兵衛が自害したことにより母方の姓名乗る)は、安政3年(1856)に生まれ、福岡県の豊津にある小笠原藩校育徳館に留学しているときに、「食べ物はまずい」と食事の不平について母親へ報告し、母より返事の手紙を落とし、見られたことから「さもしき心根の会津武士」となじられ、明治4年5月1日(墓の日付父と同じ5月18日としている)15歳で自害し果てた。墓は一族墓地の北西に位置している。

A近藤勇墓

 多摩(東京都調布市)出身。天寧寺の北側山中に墓地がある。近藤勇は明治元年4月、千葉県流山でとらえられ、25日に板橋で処刑されている。首が京都の三条河原にさらされていたという。土方歳三が、会津にきていた時、この地に墓を造ったとされている。墓には、首塚か遺髪が納められているともいうが、平石弁蔵の『会津戊辰戦争』では遺髪としている。
文責 石田明夫 
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白虎隊の戦いと飯盛山