石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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小田山西(新政府軍)砲陣跡

 小田山にある砲陣跡

 会津若松市の市街地に近く、小高くて、市街地を見下ろせる里山と呼ぶにふさわしい山が会津若松市には2つあります。それは小田山と大塚山です。どちらも、散歩コースとなっており手軽に登ることができます。双方の山には、会津だけにとどまらない歴史と文化財があります。 小田山は、慶応4年(1868)に歴史の表舞台に登場します。8月21日、母成峠を守備する旧幕府の大鳥圭介らを主力とする会津藩軍に対し、土佐藩の板垣退助を参謀とする2千から3千の新政府軍が会津領内に攻め込む。石筵の村を会津藩軍に焼かれた恨みから、新政府軍へ峠の裏道を案内する者がいて、四方向から会津藩軍を攻撃。兵力と近代兵器の差で母成峠は難楽突破されます。その峠には、会津藩軍が掘った塹壕や土塁が1次から3次まで残っています。新政府軍は、22日の夕刻に先頭部隊の一部が、戸ノ口の十六橋まで到達します。会津藩軍は、猪苗代城最後の城代高橋権太夫が城と土津神社に火を掛けて若松城下に退却。会津藩では、急遽、佐川官兵衛指揮のもとに臨時集成の白虎隊らが派遣されます。それらは、強清水東にある小山と南の笹山に分かれ、正面の強清水では、3重に塹壕を掘って対峙するも、23日早朝、簡単に突破され、若松城下に攻め込まれます。25日、砲撃に適した城に最も近い小田山のへのルートを確保し、宝積寺南東から恵倫寺東の尾根上に大砲を据えた。その遺構は、小田山に存在している。車道を登ると見晴らしの良い場所に、立看板が設置されています。その上部、木が切られている場所より10数b北側のやや低い位置に、若松城を砲撃した大砲を据えた遺構があります。幅約2b、長さ3bから5bの長方形をした平場で、斜面の下より山側の方がやや低くカットされています。その軸線の方向は、天守閣とやや南の方角、東照宮のあった権現下廓付近、風雅堂付近を指しています。大砲を据えた場所は、この地点の他に、西に張出した宝積寺南を登った参道近くの尾根上にもあります。対する会津藩が造った砲陣は、母成峠、天栄村の馬入峠、蝉峠、長沼町の勢至堂峠、諏訪峠、束松峠、栃木県の横川などにもあります。いずれも、大砲を据えた場所は、平坦か前面に低い土塁を伴うようです。歩兵が掘った塹壕(ざんごう)も山の斜面に残っています。その形態はいくつかに分かれるようです。

A類 一人用の塹壕
  峠の両脇の斜面に、半月状にした平場を造り、大人が座って頭が出る程度の深さに掘った幅2b、深さ50a程度のもの。

B類 三人から四人用の塹壕
  幅約5bで、深さ50aから80a程度、やや半月状をした溝。全面はやや土塁状に盛り上げられ、同様なものが横に並んでいることが多い。

C類 横に移動できるような横堀状の塹壕
  
幅1bの溝状に掘られ、長いもので50b以上あり、地形に沿って斜面水平に掘られます。通常は長さ15b前後。戸ノ口原では、白虎隊や新政府軍双方で掘った遺構が残っています。明治10年(1877)2月に九州で勃発した西南戦争におい、西郷軍でもA類やB類の蛸壺状の塹壕を田原坂で掘り、一部が残っています。AとB類 の塹壕は、最近判明したもので、兵士1人から3人が、敵を斜面上方から狙い撃ちする銃座のようです。 天栄村にある馬入峠には、郡山市湖南町に属する東側の斜面にA類の塹壕が、10段以上、2列から3列に配置されています。最上部には、B二類のやや大きい塹壕がいちしています。この峠の正面は、上杉景勝が慶長5年(1600)に造った長さ227bの五稜郭に似た先進的な堡塁状となる土塁と横堀が造られている。戊辰戦争では、一部それを改修し、土塁の内側に、A類の蛸壺状をした塹壕が掘られ、土塁を突破した場合には山上から狙い撃ちする作戦のようでした。B類のような数人用の塹壕は、戸ノ口原の強清水と南側の笹山本村で、会津藩が最前列に築いています

   文責 石田明夫
  
oda ada bona
平らな部分が砲陣跡
砲陣跡から若松城を見る
母成峠の会津藩防塁跡

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