石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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会津の歴史概説
 日本の歴史と会津
 
旧石器時代の遺跡が、東北地方で最も集中している笹山原遺跡(会津若松市湊町)
 会津地方に人間が住むようになったのは、約3万年前です。市内湊町笹山原にある県「会津レクリェーション公園」周辺には、多数の旧石器時代の遺跡が発掘調査で確認されています。

県内最大の縄文時代のムラ「本能原遺跡」(会津若松市大戸町)
 会津地方は、旧石器時代から継続して生活していた跡の遺跡がたくさんあります。縄文時代早期の塩川町常世(とこよ)遺跡や磐梯山サービスエリアにある法正尻(ほうしょうじり)遺跡などがあります。市内大戸町の「本能原(ほんのうはら)遺跡」は、約4,500年前の縄文時代中期の遺跡で、直径約60mの広場を中心に、長さ約20mの大型(おおがた)竪穴(たてあな)住居跡(じゅうきょあと)27棟が輪になって囲む環状(かんじょう)集落(しゅうらく)です。建物跡の大きさは青森県三内丸山遺跡よりやや小さいものの、県内最大のものです。

東北で最も早く弥生時代が始まった会津(会津若松市大戸町・一箕町)
 約2,300年前に始まった弥生時代は、北陸地方から会津に入ります。また、名古屋地方からも関東地方を経由して入ります。大戸町の上雨屋(かみあまや)遺跡や一箕町の墓料(ぼりょう)遺跡があります。会津若松インターにある屋敷遺跡からも弥生時代中期や後期の竪穴住居跡や土器が出土しています。

東北最古の古墳文化、関西から入る(会津若松市一箕町)
 一箕町の全長約114mの前方後円墳である4世紀中頃に造られた国史跡の会津大塚山古墳、4世紀前半頃の全長約84mの堂ケ(どうけ)作山(さくやま)古墳、全長約65mの飯盛山古墳は、東北を代表する古墳です。なかでも、関西系の影響が強く、多くの副葬品(ふくそうひん)が会津大塚山古墳から見つかり出土遺物は、国重要文化財で県立博物館に展示されています。また、北会津町田村山にある市史跡の田村山古墳からは3世紀末に中国で作られた鏡が出土しています。

会津の中心は河東の郡山か高野町周辺(河東町・会津若松市高野町)
 奈良時代から平安時代の会津は、陸奥国(むつこく)に属し、会津地方は会津郡一つでした。その中心は、河東町郡山遺跡が最も有力な候補地です。800m四方か600m四方の大きさがあったと推定されます。高野町の吉田では、会津郡に関係した矢玉(やだま)遺跡が発見されています。倉庫群と掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や墨書土器(ぼくしょどき)、木の札に墨で文書を書いた木簡(もっかん)などが発掘されています。木簡は、物の申請文書や種籾の品種を書いたものが発見されています。西木流遺跡では、役人の住まいと考えられる掘立柱建物跡や、東海地方から運ばれた緑?陶器や灰?陶器が発見されています。アピオにある屋敷遺跡は、1町四方に溝が巡らせられた大集落です。

東日本最大の焼物生産地(大戸町)
 大戸町の国道118号線東側、香塩(かしゅう)・南原(みなみはら)・上雨屋(かみあまや)・宮内(みやうち)・下雨屋(しもあまや)地区の丘陵上には、大戸古窯跡群(おおとこようせきぐん)があります。奈良時代の8世紀中頃から南北朝時代の14世紀前半ころまで、須恵器(すえき)と中世陶器(ちゅうせいとうき)を焼いた窯跡が225基(地点)発見されています。窯跡は、全長約5mから15mまであります。北は岩手県、南は東京都まで運ばれ、当時の役所や集落跡などから出土しています。

文化で東北平定を進めた藤原氏(湯川村・磐梯町)
 奈良時代までは、東北地方を平定するために、宮城県の多賀城(たがじょう)跡を拠点に北へ侵攻していきましたが、蝦夷(えみし)の抵抗が激しく、困難を極めていました。そのため、平安京の藤原氏は、仏教をもって平定しようと考えます。奈良から送り込まれたのは、興福寺で学んだ、「徳一(とくいち)」です。奈良時代の寺院は、平坦地に里の寺があり、山岳部に修行の寺がありました。徳一は興福寺にならって、平坦部に建てたのが湯川村の勝常寺で、修行の寺が恵日寺です。

平家方に属し、長野県で敗れた会津
 源氏と平家が戦った平安時代末、会津は恵日寺が統治し、平家方に属していました。長野県長野市の横田河原(川中島)に約3千人が出兵し、木曾(きそ)義仲(よしなか)と戦い敗れます。鎌倉時代、会津に入ったのは、神奈川県三浦半島出身の佐原十郎義連で、3代目から葦名氏と名乗ります。

 北朝方の拠点だった会津
 南北朝時代に会津の葦名氏は、北朝方に属し、中通りの北畠氏や関東の新田氏などの南朝方に取り囲まれていたことから、門田町の小田山に山城を築いて守っていました。

武田信玄・上杉謙信と同時代の葦名盛氏(会津美里町)
 戦国時代、東北地方で最も勢力を持っていたのは、会津の葦名氏です。次いで伊達氏でした。16代葦名(あしな)盛氏(もりうじ)は、上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)の春日山城のように、巨大な戦争用の山城として会津本郷町に向羽(むかいは)黒山城(ぐろやまじょう)を築きます。普段の政治は、現在の若松城にあり、黒川城(くろかわじょう)と呼んでいました。

戦国時代、伊達氏と戦った葦名氏(北塩原村)
 伊達政宗(まさむね)勢力を持つようになると、会津を攻めるようになります。その目的は、金と米などの経済力のようです。天正13年(1585)には、政宗は、葦名氏の家来で、穴沢氏を破り、裏磐梯の桧原に桧原城を築きます。対する葦名氏は、北塩原村の大塩に面積50ヘクタールの柏木城を築きます。柏木城は、関東や中部地方の最新技術を導入した巨大な石垣の山城です。

伊達政宗の一年
 政宗は、猪苗代城の猪苗代盛国(もりくに)を取り込み、天正17年(1589)に磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で、葦名氏と戦います。その日の戦いで、葦名氏は約2,500人が亡くなっています。葦名氏は敗れ、400年間治めていた会津を追われます。葦名氏は、茨城県に移り、最終的に秋田県角館(かくのだて)に住むようになります。角館は会津の葦名氏の城下町なのです。政宗は、恵日寺や冬木沢を焼き、磐梯町に陣を構え、塩川町から黒川に入ります。政宗の時代石垣の修復や、中国人による花火、白鳥を食べた記録があります。東山の天寧寺は、政宗時代には輪王寺となっていました。また、高野町下高野には、政宗の乳母の寺を建てています。

会津に来た豊臣秀吉
 全国平定の最後として、関東の小田原市に居た北条氏を破り、豊臣秀吉は、天正18年(1590)に約3千名の大軍で、白河、長沼、御代(みよ)から湊町の原を経由して、東山町の天寧に下ります。その時、輪王寺(現在の天寧寺)に秀吉は寄っています。8月9日、会津の興徳寺に入ります。先頭は蒲生氏郷(がもううじさと)だったようです。秀吉は、会津で東北地方の刀狩りと検地を命じ、会津本郷から田島町を経由して帰ります。台帳と検地の面積が一致したところを居合といいます。

東日本の拠点、若松城
 関東の徳川家康、東北の伊達政宗を抑えるために秀吉は、会津に蒲生氏郷を配置します。そして、天守閣を持つ高石垣の近世城郭の若松城を造り、黒川を若松と変え、町並みを整えます。その姿に、領民は驚いたと考えられます。

天目茶碗も焼かせた氏郷の茶道文化(会津若松市)
 蒲生氏郷は、千利休(せんのりきゅう)に茶道を習った人物で、利休が秀吉から切腹を命じられると、その子、小庵を領内にかくまいます。小庵の子が表千家、裏千家、武者小路千家となります。氏郷は、会津大塚山窯を大塚山に築きお茶の天目(てんもく)茶碗(ちゃわん)を焼くために窯を築きます。その窯は、織田、豊臣、徳川、前田、蒲生だけに許されたものです。また、京都の楽焼2代目「常慶(じょうけい)」が文禄2年(1593)11月会津の氏郷へ、千少庵を引取りにに来ています

蒲生時代、キリシタンが普及する
 蒲生時代には、キリシタンとなった人が多く、猪苗代町では8割がキリシタンになっとも言われています。その教会の跡は、湊町上馬渡(かみまわたり)、町北町上荒久田(かみあらくだ)、一箕町上居合(かみいあわせ)、猪苗代町の市街地にあります。また、猪苗代町には、セミナリオ(神学校)跡があり、現在では神社となっています。一箕町飯盛山には寛永15年に年号が彫られたキリシタンの洞窟と推定されるものがあります。

天下を分けて戦った上杉景勝と神指城
 豊臣秀吉が世を去ると、徳川家康が力を持つようになります。上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)は秀吉に忠誠を誓う毛利や石田三成とともに、家康に対抗します。慶長5年(1600)に広島城をまねて、若松城の2倍の城郭、神指城築きます。また、家康の侵攻に備え、白河市や栃木県藤原町、長沼町、伊達郡桑折町などに土塁と堀を長大に築いています。それらの遺構が今でも残っています。4万5千の家康勢が本当に侵攻したとしても上杉方は負けなかったと考えられていますが、家康は栃木県小山で引き返し、関ヶ原戦いとなります。

松平の祖、保科正之
 2代将軍徳川秀忠の隠し子で、3代将軍家光と水戸光国とは兄弟。長野県の高遠町に居たが、存在が分かると、山形城経由で会津に入ります。墓は、猪苗代町の土津(はにつ)神社です。3代目から松平を名乗ります。2代目からの墓は、東山にある国史跡「会津松平家墓所」に埋葬されています。

勝ち目の無かった戊辰戦争
 戊辰戦争は慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争が開始された。4月29日土方歳三ら新選組一行が、会津藩士の秋月登之助の手引きで七日町の清水屋旅館に入る。5月1日、白河城が陥落。8月21日西軍は2千から3千人で母成峠に進攻し、新選組や旧幕府の大鳥圭介、会津藩など約700人が守備していたが、火力の差で敗北。8月22日には猪苗代城代高橋権太夫が城と土津神社に火を放ち退却する。8月22日、白虎隊が出陣、戸ノ口原にざんごうを掘り、待ち構えていた。23日早朝から合戦。またたく間に敗北。猪苗代町の母成峠を越え、日橋川を渡り、土佐の板垣退助を先頭に攻めてきました。河東町の戸ノ口原で暴風雨の中戦いました。戸ノ口原には、西軍や白虎隊が1日で築いた塹壕(ざんごう)があります。また、母成峠、勢至堂峠、中山峠、小田山などにも防塁や塹壕があります。同日西軍は、若松城下へ進攻している。9月22日、会津藩が降伏した。会津藩の戦死者は2,977人。城下の2/3が焼失した。若松城には、5235人が籠城していた。会津藩では丸弾のヤーゲル銃が主力であったが、西軍は卵形のミニエーやスナイドルが主力であった。会津藩の勢力は正規兵が3500人、農兵などを合わせると約9600人、西軍は約75000人であった。
文責 石田明夫   
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